患者になって気づいたこと

2016/02/17

小松 光代(看護学部 教授)

私は、出産以外に入院や大病を患った経験がなかったが、昨年初めて全身麻酔で手術を受けた。幸い命に関わるものではなかったため約1週間で退院し仕事に復帰できた。これまでの自戒の念と看護師を目指す学生にむけて、患者の立場でうれしかったこと、再認識したことを書いてみることとする。

まず、1点目は「ちょっとした気遣いがうれしい」ことである。入院日の夕食時に不注意でわずかにシーツを汚し、ついつい言いそびれて黙っていた。検温時に気づいた看護師が「あとで交換しましょう」と勤務帯の最後に交換してくださった。とてもありがたかった。このような些細な配慮がとてもうれしく、ここの看護師さんたちに安心してお任せしようと手術前日も熟睡できた。そして、手術当日、徒歩で手術室へ移動したが帰室はベッドで移送されて戻った。翌日の離床時、スリッパと衣類が見当たらない。私は、一瞬あせったが、ベッドの足下からスリッパと衣類を発見した。当然かもしれないが、スリッパと衣類が別々に保管され衣類はきれいにたたまれていた。決まり事なのだろうがほっとするやら、人目に触れないように配慮されていたことに感心するやら、小さな配慮が安心と信頼につながると感じた。

2点目は「患者は英語でPatient」、痛みや不安に加え、待つことに耐えていることである。私は、キャリーバックを片手に、入院予約時間に病棟に到着、ステーションの前で緊張して20~30分間待っていた。せっかちな性格のため、もう一度声をかけるかもう少し待つか、この程度なら外来の待ち時間より断然短いと心を落ち着かせた。担当看護師から左手首にバーコードを装着され、いよいよ患者として管理される実感がわいた。

手術は翌日、気忙しい日々を送る私にとって病室で過ごす時間はとても長く感じられた。午後、手術室看護師の術前訪問があると聞き待ちわびていたが結局現れず。ちょうど夕食時に来室、断りもなく食事を中断され私は問いに答えた。手術が長引き早く帰宅したい気持ちはわかるが、これが患者の立場だと・・・「せめて10分待っていただければ終わります」と言い出しそうになったがお世話になるのだから・・・と遠慮して言葉をのみこんだ。

3点目は「管理されている」ことである。私は、在宅看護学を担当し在宅療養の意義を再三学生に伝えてきたが、やはり自宅は自分のペースで過ごせる場所であることを痛感した。その一例は、シャワーを浴びる時間帯である。シャワー付き個室に入院したが「夕方、16時30分までに済ませて下さい」と何度も声をかけられた。就寝前に浴びたいのだが、叶わない理由を自分なりに考えてみた。「私は入院患者であってホテルの宿泊客ではない・・・夜は音が響く。トラブルに備えて出来る限り職員が多いうちにシャワーを浴びる。これが原則だ。」と指示に従った。さらに、手術当日は、季節柄、また術前処置の連続で汗をかいたため午後からの手術に備えて「もう一度、午前中にシャワーを浴びたい」と申し出たが「昨日済ませたので今日の予定にはありません」と断られてしまった。5分あれば一人でシャワーを浴びることができるのだが・・・と困惑した。あきらめきれない私は、別の看護師に声をかけて予定を確認してもらい許可を得た。確認して下さった看護師に心から感謝した。こんな些細なことで管理され自由が利かないと感じた。

これらは、入院してわずか2日間の出来事である。高度な医療的ケアよりも入院生活の些細なことに一喜一憂した。恐らく患者は、もっと多くの我慢を強いられていると感じた。『患者の声を聞く』(酒巻,林田,2013,p157)では、「大事な役割を担っているのが、盛んにフォローして動き回っている看護師さんですね。・・・(途中省略)・・・少しの気遣いで生活も気持ちも大きく変わるものです」と記されている。また以前、在宅療養者の家族から「さりげなく気配りをされるとうれしい」と伺ったことがある。学生には、当たり前、些細と思われることも患者の立場で確認し気遣いのできる看護師になってほしいと伝えていきたい。

 

※所属・役職は掲載時のものです。