看護ケアの原点

2015/03/24

森 公一(学芸学部 情報メディア学科 教授 / 企画部長)

昨年11月に行われた同志社女子大学看護学部開設記念シンポジウムに、川嶋みどり氏をパネラーとしてお迎えしました。川嶋氏は自らの60年以上に及ぶ看護師としての経験をふまえ、「暖かいお湯と一枚のタオル」によって、繰り返し優しく体を拭き清めてあげれば、たとえ衰弱し死に瀕した危篤状態の患者であっても、人が本来持ち合わせている生きる力を取り戻すことができることを力説されていました。川嶋氏のこの経験こそ、看護(手と目で護る)の臨床的なリアリティであり、看護ケアの原点であることを痛感させられました。

私たちはつい、医療系ドラマや小説の影響から、高度な技術とチームによる医療、すなわち救命救急における外科手術のようなきわめて難易度の高い手術に目を奪われ、ともすれば看護師を、それらの補助者としてとらえがちです。もちろん、医師と同じように高度な知識を持ち、最先端のチーム医療の一員として活躍する看護師は大いに賞賛すべき看護師像の一つです。しかし、ドラマなどで演じられる看護師の多くはキュアに関わる役割の一つであって、看護ケアの本来的役割とは別次元のものなのです。川嶋氏の言葉によって、改めてそのことに気づかされました。

医療現場におけるキュアとケアは相補的な行為であるべきなのでしょう。キュアは科学的根拠に基づき、疾病の原因を取り除く行為。ケアは患者に寄り添いつつ、身体的・精神的に快適な状態をもたらし、生きる力を引き出す行為。どちらも重要で、必要不可欠な医療行為であるはずです。しかし、これまでの医療はキュアの質が問われることがあっても、ケアの質が問われることが少なかったのではないかと思います。稀に特定の優れた看護師が話題になることはありますが、「あの病院のケアは素晴らしい」という評価はあまり耳にしません。病院におけるケアの質は、ひとまずは看護師の人数によるところが大きいと思われます。一人の患者に対して、「寄り添う」と言えるだけの、十分な時間をかけることができるかどうか。ここを改善することが先ずは喫緊の課題でしょう。その上で、今後の看護ケアに求められる課題も少なからずあるのではないかと思います。

看護学部開設記念シンポジウムの基調講演では、自ら癌を煩い4度の手術を受けた鳥越俊太郎氏が、患者の立場から手術後の苦しみを訴えておられました。氏によれば、手術自体は麻酔をうたれているので、いつの間にか終わっている。そこに苦痛はない。しかし術後こそ数々の苦しみが訪れたと言います。例えば、夜中に得体の知れない悪寒にみまわれ震えが止まらず死ぬのではないかと思ったこと、口内がカラカラに乾いて苦しかったこと、尿管の再挿入があまりにも痛かったこと、女性の看護師さんが尿管を挿入し恥ずかしい思いをしたことなど。鳥越氏は懸命に看護にあたってくれた方々に対し、大変感謝されていましたが、その上でこれらの苦痛を緩和する手段があったのではないか、と訴えておられたのです。病の元を取り除くキュアが重要であることは言うまでもありません。しかし鳥越氏の訴えを聞く限り、キュアに力点が置かれるあまり、術後の苦痛を軽減するケアの方法については、まだ発展途上なのではないかと感じます。患者の苦痛に寄り添い、可能な限り快適な状況を創りだす。そこに未だ多くの課題が残されているように思えます。

臨床現場における実践的なスキルこそを重視する看護ケアは、現場主義的であるがゆえに、それぞれの看護師の経験に基づいたノウハウが、看護師個人に潜在する暗黙知となって蓄積されていることが多いのではないかと推察します。看護の専門知識や技術に関わるテクニカルスキルはもとより、対他的なヒューマンスキルや対自的なセルフマネジメントについては、特にそう言えるのではないでしょうか。

これからの看護ケアの教育について考える時、キュアと相補的な関係にあるケアの位置をふまえ、この領域の独自性や重要性を自覚することが必要だと感じます。川嶋氏が指摘する看護の原点を常に振り返りつつ、看護ケアの暗黙知、とりわけヒューマンスキルやセルフマネジメントに関わる暗黙知を顕在化し、これらを養う学びのプログラムへと充実させることが求められていると思うのです。

 


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