館名「蒼苑館」によせて
中村 信博(学芸学部 情報メディア学科 教授 / 宗教部長)
同志社女子大学にかぎらず、系列の諸学校においても1号館、2号館のような単純な館名は存在しません。一棟ごとに関係者の祈りと願いがこめられた固有の名称が与えられています。命名の法則を読み取れずに戸惑った新入生たちも、いつしか館名を通して、同志社精神の奥行きを日常のなかで感じるようになっていきます。それもまた同志社の文化なのかもしれません。
同志社大学で、これまでに数多くの館名について命名者となられた本井康博先生(新島研究・同志社大学神学部元教授)
は、その原則をおよそ以下のよう分類しておられます。
1) 聖書の中の文言(聖句)
2) 新島襄の言葉か、彼のスピリットを表したもの
3) 功労者の個人名
4) まれに「公募」という方法もあるとのこと
(本井康博『志を継ぐ —新島襄を語る(十)—』、思文閣出版、2014年)
女子大学の場合もほぼ同じです。ただ、伝統的にはこの基準に従って宗教部長が原案を考える習慣があります。館名についての公募は記憶にありませんが、京田辺キャンパス中庭の「ウィンクルムの庭」は学生対象の公募で選ばれたものでした(2011年)。この機会に、看護学部関連棟として計画された新棟が、どのような経緯で「蒼苑館」として命名されるに至ったのかをふり返っておきたいとおもいます。
「蒼苑館」は簡単にひらめいたわけではありません。いろいろな候補名が浮かんでは消え、消えては浮かびました。同志社における看護教育の源流を考えると、たとえば、「リチャーズ館」が提案されるべきであったかもしれません。本井先生の原則では3)にあたります。しかも、本井先生は、それを「ベリー館」とともに同志社にあってしかるべき館名の有力候補としておられるのです(本井『前掲書』)。リンダ・リチャーズ(L.Richards)は女性宣教師でしたが、アメリカ初の有資格看護師として新島が同志社に設置した京都看病婦学校における教育の責任を負いました。また、ジョン・C・ベリー(J.C.Berry)は新島の要請に応えて岡山から転じ、同志社病院の責任者となった医療宣教師でした。実際、学内に「リチャーズ館」待望論があったことも事実です。
けれども、以前に、ある館名の提案に際して、当時の学長とこんな暗黙のルールを確認したことがありました。館名自体がその建物の用途ならびに利用する学生と教職員とを限定し過ぎないこと。そして、その館名によって、建学の精神がすべての学生たちに共有されることが望ましい。およそ、そんな内容でした。このルールは、どこかに記録されているわけではありませんが、ふたつのキャンパスに立ち並ぶどの校舎にもあてはまります。
比較的新しい「憩水館」のことを考えてみましょう。実質的には薬学部棟として活用されていますが、キャンパスにこの館名があることの意義は、薬学部生と関係者だけに限定されるものではありません。京田辺キャンパスには、「ウィンクルムの庭」が整備される以前に「草苑館」という建物が存在しましたが、「憩水館」は本来、この「草苑館」と一対として存在することを前提にして着想されたものだったからです。「草苑館」は、旧約聖書・詩篇95篇7節の「彼はわれらの神なり われらはその草苑(まき)の民 その手(みて)のひつじなり」(文語訳)を典拠としていましたが、それは同時に、詩編23編2~3節(前半)の「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(新共同訳)という一句も連想させるものでした。「憩水館」はこの連想を手がかりに命名されました。
そこには、このキャンパスに学ぶ者、働く者、訪れる者たちが、神の導きによって「青草の原に休らい、憩いの水のほとりにと導かれる」ようにという願いが込められていたのです。とりわけて、人生の大切な時代を本学に学ばれる若いみなさんにとって、キャンパスでの研鑚そのものが、魂の再生のときでありますようにとする、本学のキャンパスに継承されてきた祈りの声が聞こえてくるような気がします。
「蒼苑館」は「草苑館」の精神を受け継ぎながら、「草」に換えて「蒼」が充てられています。ちなみに、「蒼」という字は、刈り入れて倉に納めた青草の色を指すのだそうです。草原そのものではなく、その草が本来持つ「あおあおとした色」が目に浮かびます。さらに、新しい「蒼苑館」は「憩水館」の隣接地に位置することになりました。文字通り、両館一体となって、人間を本来のあるべき場所にと導いてくださる神の働きを鮮やかに、そしてながく示しつづけてくれることでしょう。
こうした館名の歴史におもいを馳せながら、同志社女子大学が志す医療分野の教育研究が、人間に由来するものではなく、神による働きであることを謙遜に心に刻まれることを願っています。
※所属・役職は掲載時のものです。