災害看護:そのはじまり

2014/09/19

岡山 寧子(社会システム学科 教授 / 2015年4月 看護学部 教授・学部長就任予定)

今、世界のあちこちで自然災害また紛争やテロ、感染症の広がりなど、人々の生命の危機や健康が脅かされている状況があります。日本でも、この8、9月に台風や豪雨により、広島をはじめとして各地で大きな被害を受け、今でも多くの方が避難生活を余儀なくされているとのことです。被災された方々には心よりお見舞いを申し上げます。

今回は「災害看護」についてご紹介したいと思います。昔から災害時には日本赤十字社や自衛隊などが中心となり救護活動がなされてきましたが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件での経験などを契機に、看護界全体で積極的に取り組み、「災害看護学」として実践と研究の両面から発展してきました。今では、看護基礎教育だけでなく卒後教育の中でも災害看護を必ず学ばなければならないプログラムが盛り込まれています。また、看護専門職能団体である日本看護協会では、国内外を問わず、そのネットワークを駆使して、現場での看護をいち早く実践するとともに、災害看護をより専門的に実践できる専門看護師(急性・重症患者看護)や認定看護師(救急看護)を養成し、救急現場での看護の広がりと質の向上を図っています。

災害看護の歴史をみますと、組織的な活動がなされたのは明治以降です。日本赤十字社では、古くは1888(明治23)年に磐梯山噴火の時、1890(明治23)年のトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事故の際に救護活動を行っています。また、1891(明治24)年の濃尾地震発生時には、日本赤十字社はもとより、当時すでに看護教育を開始していた東京慈恵医院看護婦教育所(現東京慈恵会医科大学)や桜井女学校附属看護婦養成所、そして同志社病院・京都看病婦学校などが組織的に救護活動を実践した記録が残っており、近代の看護教育を受けた看護婦たちによる初めての災害看護活動だといわれています。

では、同志社病院・京都看病婦学校では、濃尾地震でどのような救護活動を実践したのでしょうか。「The Sixth Annual Report of Doshisha Mission Hospital and Training School for Nurses(同志社病院・看病婦学校6年次年報1892年)」(上野直蔵編纂『同志社百年史資料編二』)、大久保利武『日本に於けるベリー翁』(東京保護会、1929年)、佐伯理一郎『京都看病婦学校五十年史』(1936年)、「京都醫学雑誌」などに当時の記述がみられます。濃尾地震は、1891(明治24)年10月28日早朝発生、岐阜県根尾谷(現本巣市)を震源地としたマグニチュード8.0と推測される大地震でした。その時の岐阜県の死者は約5000人といわれています。京都でも同志社病院の煙突が崩れ落ちるほど激しく揺れたということです。病院長ベリーを中心とした「同志社の医療救護チーム」が直ちに被災地に向かい、地震発生6日後には大垣町(現大垣市)で活動を開始します。その他にも各地の京都看病婦学校関係者が駆けつけ、卒業生5名、生徒4名の計9名が救護活動に参加したことがわかっています。活動場所は大垣町だけではなく7治療所に分散し、活動期間も2日間から3ヶ月以上と様々だったようです。ベリーに同行した生徒の斎藤ミチによると、「京都を汽車で出発し、岐阜県垂井までゆき、それから先は不通のため徒歩で大垣まで行きました・・・」、また「大垣に着いてみても一面の焼け野原で言葉に尽くせぬような惨憺たるもので・・・、ともかく一行はお役人達に迎へられ、取り敢へず半部倒れがかった小学校の校舎を仮病院として負傷者を収容することになりました・・・」、そして「寝食を忘れて働き通し・・・着のみ着のまま小学校で仮眠するぐらいで活動しました」「手術室ではずいぶん荒っぽい外科手術をしますので、・・・地獄絵をみるような惨状が今尚印象に残っております・・・」など、その悲惨な状況を回想しています。「同志社の医療救護チーム」が活動した大垣治療所では、1週間の初診患者数は約500名、骨や内臓に達しない内部損傷が最も多く、次いで裂傷・挫傷、骨折や合併症などが多かったという記録があります。大垣治療所にて、ベリーや斎藤ミチら「同志社の医療救護チーム」が治療や看護を実践する緊張感漂う貴重な写真が今も残されています。

救護活動に当たった看護婦たちにとって、それまで経験したことのない状況下での看護活動だったと推測されますが、包帯法や無菌操作、手術看護、投薬介助、心のケアなど、当時の日本では最新の看護技術を駆使しての活動だったのではないでしょうか。それは、近代看護教育の成果の一端をうかがわせるものであったと思います。

 

※所属・役職は掲載時のものです。