同志社女子大学の二条家邸跡と二条斉敬

2013/05/14

山田 邦和(社会システム学科 教授)

 

NHKの大河ドラマ「八重の桜」では、会津藩主で京都守護職だった松平容保が大活躍しています。容保を演じる俳優の綾野剛さん、憂いを含んだ表情が印象的で、なかなかの名演だと思います。ところで、皆さんは同志社女子大学今出川キャンパスの地がこの松平容保と深いつながりを持っていることをご存じでしょうか。

最近、今出川キャンパスの東門の前に「二条家邸跡」の石碑が建てられました。江戸時代にはこの土地には、公家の二条家の邸宅(今出川邸)が存在したのです。キャンパスの東南隅には約5mだけ白壁の土塀が残されていますが、これが今に残る二条家邸の貴重な遺構です。純正館ロビーには、キャンパス内から発掘された二条家邸跡の出土品の一部が展示されていますので、お立ち寄りください。

二条家は藤原氏北家九条流に属し、鎌倉時代前期の公卿の藤原良実(二条良実)を家祖とする家系です。藤原氏北家の中でも、近衛、九条、二条、一条、鷹司各家は五摂家と呼ばれており、その当主は摂政・関白にまで昇り得るという高い家格を誇っていました。二条家が今出川邸に移転してきたのは寛文元年(1661)のことであり、明治維新にいたるまでここは同家の本邸として使われていました。なお、二条家は鴨川の西岸(現・京都府立医科大学附属病院敷地)にも別邸(下屋敷)を構えていました。

幕末の動乱期にこの二条家の当主となったのが斉敬<なりゆき>です。大河ドラマ「八重の桜」では、俳優の伊吹剛さんが演じておられます。斉敬は孝明天皇の厚い信任のもと、関白となって京都の政界を主導し、朝廷と幕府が緊密な協力関係を維持する公武合体派の大立者となっていきました。そして、二条斉敬は京都守護職に任じられた松平容保とは厚い信頼関係によって結ばれ、元治元年(1864)2月には会津松平家と二条家とは「両敬の約」と呼ばれる固い契りまでをも結ぶことになりました。容保はしばしば斉敬の今出川邸を訪問していますから、私たちのキャンパスのどこかがこのふたりの語らいの場となっていたのです。

元治元年3月には第14代将軍徳川家茂が二条邸を訪れていますが、将軍が公家の屋敷を公式訪問するというのは、当時としては驚天動地といってもよい出来事でした。松平容保だけは病のためにこの場に居合わせることができなかったのですが、将軍後見職一橋慶喜、政事総裁職松平直克(川越藩主)を始めとするお歴々が将軍に随行していますから、当時の政界の首脳部はここにほとんど顔を揃えたことになります。これはまさに、公武合体が国家の根本政策であることを満天下に示した一大イベントでした。同志社女子大学今出川キャンパスの地は幕末という動乱の時代の表舞台のひとつだったのです。

ただ、斉敬は公武合体派の中心人物として、薩摩藩や長州藩などの反幕府勢力からは不倶戴天の敵とみなされていきました。慶応2年(1867)、公武合体の支柱であった孝明天皇が急な病によって崩御し、それとともに斉敬も朝廷の主導権を失ってしまいます。そして、孝明天皇と斉敬が政治の表舞台から姿を消したことにより、時代は一気に倒幕と明治新政府の樹立へと転回していったのです。

明治10年(1877)、二条家今出川邸の西半分は同志社に譲渡され、そこに同志社女学校が建てられました。残る東半分も昭和21年(1946)にいたって同志社の校地に組み入れられ、ここに二条家邸跡のすべてが、同志社女子大学の前身である同志社女子専門学校の敷地になったのです。いうまでもなく、同志社の創設者新島襄の妻の八重夫人は会津出身であり、八重の兄で新島襄の無二の親友として同志社を支えた山本覚馬はもとの会津藩士でした。また、覚馬・八重兄妹の母の佐久も、同志社女学校の開校とともにその舎監に就任して学生の世話にあたっています。

覚馬と八重の兄妹は、新しく建設された同志社女学校の美しい校舎に触れた時、そこがかつての二条斉敬の屋敷地であったことを思い起こし、深い感慨を覚えたに違いありません。二条関白・斉敬こそは、覚馬や八重が身命を賭して忠誠を尽くしてきた旧主・松平容保の無二の盟友であり、斉敬の尽力なしに京都における会津藩の活躍はあり得なかったからです。

 

※所属・役職は掲載時のものです。