八重の持っていた「銃」について

2013/02/15

村瀬 学 (人間生活学科 教授)

 

NHKの大河ドラマでは、八重が銃を撃つと同時に薬きょうが、くるくるとスローモーションで銃から飛び出す印象的な光景が映し出されていました。ハイスピードカメラで撮っているのか、CGで合成して人工的に作っているのか、わかりませんが、印象的な場面でした。女子大生でも、あの場面が「かっこいい」と言っていたのがおりました。

八重が持っていた銃については、八重の回想録から二種類あったことが分かります。一つは「ゲベール銃」、もう一つは「七発の元込め銃」です。「ゲベール銃」は、丸い弾丸と火薬を紙に包んだものを、銃の先から棒をつかって押し込む手間のかかる旧式の銃でした。大河ドラマでも、八重が紙に包んだ弾を銃に押し込んでいる姿が何度か映されていました。この銃は当時の徳川幕府がフランスから大量に購入し続けていたもので、八重たちの籠城で使われていた銃の多くも、この銃でした。ちなみに鶴ヶ城が陥落したときに、城内から提出された小銃の数は2845挺と大山柏『補訂戊辰役戦史下巻』には記録されていますが、落城して投降した老弱男女の総数が5235人と同書ではなっているので、単純に計算すると二人に一丁の銃があったという事になります。付け加えていうとゲベールとはオランダ語で小銃という意味でした。

しかし、銃の先から弾を込めるこの面倒な鉄砲は、当時の戊辰戦争では実践的にはもはや古いものになっていました。そのことに触れる前に、八重が持って城に入ったと回想されているもう一つの「七発の元込め銃」のことに触れておきます。これはいくつかの八重本のサブタイトルに使われている「スペンサー銃」であっただろうと思われます。この銃は1860年にアメリカで発明されたライフル銃で、南北戦争で使われ、日本には佐賀藩が最初に購入したとされています。なぜ佐賀藩だったのかということが、とても重要なことなのですが(横道にそれるのでここでは触れませんが)、戊辰戦争下ではこの銃は八重が回想しているような言い方で、つまり「元込め七連発銃」と呼ばれ大変有名になっていました。しかしあまりにも高価な銃で、当時の金額で一丁37ドル80セントで佐賀藩は購入したとされていて(所荘吉『新版図解古銃事典』)、誰もが持てる銃ではなかったのです。ですから、この銃を八重が持っていたという事は、それ自体もっと研究してみる必要があります。

ところでこの銃の特徴は、すでに知られているように銃尾から七発の弾を込める床尾弾倉式の銃で、連続して七発撃つことができました。一回一回銃の先から弾を込める「ゲベール銃」との差は歴然としています。しかし一番の違いは、連続して撃てる弾の数ではなく、銃の作り方の根本的な違いにありました。それは「元込め七連発銃ライフル銃」とも呼ばれているように「ライフル」という様式の作りになっていたからです。「ライフル」とは、銃身内部に施した螺旋(らせん)条溝のことで、弾丸にくるくると回転を与えて弾道を安定させて飛ばせるように発明された画期的な銃身のことでした。この螺旋(らせん)条溝を持った銃を、その後「ライフル銃」と一般的に呼ぶことになります。そして、この銃には、実はもう一つ大事なところがありました。それは弾薬の形状です。つまり弾薬もライフルという螺旋(らせん)条溝に食い込むような形状を持った弾でないと使えないということだったのです。おそらく、このあとの大河ドラマで、籠城する八重たちが川崎尚之助の指導の下に鉄砲の弾を作るシーンが出てくるかと思われます。2万発ほどみんなで作ったとされているので、いわば簡単に作れる弾があったのです。しかしそれは鉛を溶かして球状にしたゲベール銃にのみ使える弾でした。

ライフルの形状の弾を作ることは、銃身にライフル条溝を作り出すのと同じように、当時の日本の技術ではむずかしいものでしたから、当然そのような弾を鶴ヶ城で作ることはできませんでした。八重が籠城の時に家から「元込め七連発銃」と「百発の弾」をもってきたと回想しているのですが、それはだから特殊な弾丸をもってきたということを意味しています。ですから、百発しか持ってこなかったという事は、百発撃ってしまえば、もうこのライフル銃は、他の球状の弾では使用できなかったということなのです。

こういうことをなぜわざわざ言うのかというと、ライフル銃は発射された弾丸が回転して進むので、軌道は安定してまっすぐに飛ぶのですが、ゲベール銃では、普通に狙って撃っただけでは、弾がまっすぐに飛ぶとは限らないので、命中率はとても悪かったということを指摘するためです。でも大河ドラマでは、八重は家の中の射撃場(こういう射撃場が当時の個人の家に作ることが可能だったのかは私は疑問だと思うのですが)で、ゲベール銃をつかって的に命中させているシーンが何度も放映されていたではないかと言われるかも知れません。確かに、じっと狙って撃てば、火縄銃でも命中する度合いは高かったといわれていますから、命中はしたと思われます。しかしそれは射撃場のような落ち着いた場でのことであって、実際の戦場で、攻めてくる敵を前に、一回一回銃の先から慌てて弾を込めながら、発砲するという「ゲベール銃」では、落ち着いた狙いは実際にはできなかったとされています。ですからどこに飛んでゆくのかわからないままに前に向かって撃つしかないようなところがゲベール銃にはあったのです。

そんな鉄砲の考察などして何になるんだと思われるかも知れません。もっと八重の武士の心意気のようなものを考察する方がいいのではないかと。しかしそれは違うと私は思います。大河ドラマの中でも描かれましたが、兄の覚馬が江戸で西洋の砲術を習い、それを会津藩に帰って伝授しようとして、藩から反対されるシーンがありました。これは事実です。そしてこういうことは、会津藩だけではなく当時の幕藩体制の多くの藩で起こっていた出来事だったのです。当時の幕府は、1855(安政2年)に、旗本御家人に対して西洋流砲術調練を命じ、湯島製造所を設けて洋式銃砲の製造を開始しています。覚馬はその命令を受けて翌年に会津へ帰り蘭学所と銃の指導をしようとしたのですが、江戸の幕府の新しい動きが読み取れない会津藩の老中たちは、この動きに反対したのです。そして私の今回の小文もこの反対の意味について、しかと考える必要があると思って書いているところがあるのです。

というのも、日新館というような日本でも有数の学問所を、藩士の子弟のために作った会津藩にとって、鉄砲は武士道と相容れないものに映っていたからで、それは他の藩でもそうでした。どういうことかというと、武士道は戦う相手を目の前に見据えることで成り立つ武術であるのに対して、鉄砲は、相手が誰なのか確認もできない遠くに居るものに向って発砲する技術であって、何も武道のような心の鍛錬を必要としなくても成り立つものだったからです。現に幕府は鉄砲を訓練させるものに農民を採用してもいいと指示していました。現に長州藩の高杉晋作の作った騎兵隊は、農民や町人が混じって結成されていました。

しかし、多くの幕府の武士たちは、「刀」が武士道の基本であり、「銃」は武士道ではないと考えていたのです。ここにきて、八重の持っている銃について考えることが、実は武士道とは何かを考えることにつながることに気がつくのです。新渡戸稲造は『武士道』岩波文庫のなかで「13章 刀・武士の魂」という章を設けて、「武士道は刀をその力と勇気の象徴となした」とその章を書き始めています。そういう「刀」と、その対極にある「銃」の確執が、実は会津藩でも起こっていて、この武士道へのこだわりと、近代兵器の銃の問題を軽視する延長で、会津の大きな悲劇も起こっていたことに、私たちはもっと注意を払わなければなりません。

 

綾瀬はるかさんの演じる銃を持った八重のポスターがあり、そこに「会津の武士道を生きた八重の姿」などと書いている本もありました。そういうひとは「刀」と「銃」の本当の区別について、十分に考えることをしていないと言わざるをえません。八重は徳冨蘆花たちから「ぬえ」と呼ばれ、頭は西洋で、体は東洋で、と揶揄されていたのですが、実は八重が「ぬえ」の宿命を生きることになるのは、京都へきて新島襄と結婚して始まったのではなく、幕末に「刀」(東洋)を持つ武士の家に生まれながら「銃」(西洋)を持たなくてはならなかったところから始まっているのです。

 

そして、この「銃」を持って戦うことが近代日本の富国強兵につながり、日清日露戦争へとつながってゆくところとは、私たちの問題としてしかと見つめてゆかなくてはならないところなのです。

 

※所属・役職は掲載時のものです。