八重の撃った弾は誰に当たったのだろうか

2012/12/06

村瀬 学(人間生活学科 教授)

 

八重に関する本がすでに50冊以上出ています。これらの本で共通しているのは、会津戦争の描かれ方です。八重が女性でありながら、銃を持って男も顔負けの勇敢な立ち振る舞いで会津戦争を戦い抜いたという、武士のような女性の姿です。そして気がつくのは、八重本の多くが、会津鶴が城の攻防戦の八重の姿を、同じような視点から、同じように描いているというところです。なぜそうなるのかというと、八重の語った回想録のようなものがどうしても種本になっていて、そこに想像力をつけて話を膨らませるような書き方になってしまっているからです。もし描き手を従軍記者だと考えると、八重を描くために、常に八重の側にいて、八重の動きにだけスポットライトを当てて描いているようになっているからです。

例えばマンガのイラストを添えた子ども向けに書かれた国松俊英・文、十々夜・絵の『新島八重 会津と京都に咲いた大輪の花』フォア文庫2012.11をみると、その戦いの場面はこういうふうに描かれています。

八重は、銃眼からのぞいて、堀の向こうにいる敵軍の隊長らしい男を指さした。男は背が高く、朱色の鉢巻をしている。指揮する旗を持っていた。「いまから、あの鉢巻の男をねらって撃ちます。見ていて下さい」八重は、胴乱から銃弾を取りだすと、スペンサー銃にこめた。そして前の銃眼に、銃を射し入れてしっかり構えた。大きく息を吸ってから止め、引鉄を引いた。ダーン。朱の鉢巻の男が、一瞬飛びあがりどっとたおれた。銃眼からのぞいていた三人の兵が、おどろきの声を上げた。そして、八重の銃が敵の隊長らしき男を一発でたおした、とまわりにいる者に大声で告げていた。兵たちの態度ががらりと変わった。兵たちはその後は、八重の指揮通りにどんどん動いてくれた。

八重の回想録に想像力を付けるとこういうふうな描写になるのかもしれません。女性のライターである石川麻理子『新島八重 武士の女はまつげを濡らさない』PHP 2012.10は次のように描写しています。

八重は北出丸に駆けつけると、すかさずスペンサー銃を構え狙撃をはじめました。(略)城の造りにも助けられました。敵方には砲弾を遮るものがなく、近づけば撃たれるほかなかったのです。土佐兵の名だたる隊長連が次々と撃ち倒され、ついに板垣退助は後方の薩摩兵に援護を乞うために後退します。(略)八重は大山を重要な指揮官と見て狙いを定めました。薩摩兵がいよいよ砲撃を開始しようとしたまさにその時、八重は引き金を引きました。弾は大山の右大腿部を貫きました。大山はその場にくず折れたかと思うと、数人の兵士に抱き上げられ姿を消しました。とても采配をとることができなかったのです。

こういう描写に史実の裏付けがあるのかどうかわかりません。ただわかるのは、書き手が、スペンサー銃で敵兵を狙い撃ちして倒したという出来事を「武勇伝」のように語らせているというところです。もしも、こういう場面の描き方に真実があるのだとしたら、ここで八重はたくさんな「敵兵」を殺したという事になります。射撃の腕前が誰よりも正確だったと書いてある本もあります。「射撃の腕が正確」だということは、狙った敵は必ず殺したということでもあるでしょう。戦争なんだから敵を殺すのは当然であるといえば、当然であるでしょうが、しかしここで「殺す」という言い方をするのはよくないと思われるかも知れません。「敵を倒す」という言い方に書き換えてくださいと言われるかも知れません。というのも、「敵を倒す」ことはしても「敵を殺す」ことはしていなかったかもしれないからです。ここでも八重の行動を描写するのに、まちまちな書き方がされているのがわかります。その描写の二つの典型を先ほど示しました。

けれども八重本が描く鶴が城の描写には、だいたい三つのパターンがあるのがわかります。

  1. 1.八重の撃った銃が、「敵を殺した」ことをはっきりと書くもの。(最初の引用の文章)
  2. 2.八重の撃った銃は、「敵を傷つけた」ことは書くが、「殺した」という描写は避けるもの。(二つ目の引用の文章)
  3. 3.八重が銃を撃って男勝りに戦ったということを書くが、その「戦った」という中身をあえて具体的には書かないという描き方をするもの。(殺したのか、負傷させただけなのか、ただただ敵兵を驚かせていただけなのか、わからないようにしている)

そういう所は比べて読まれて自分で確かめてみられるといいと思います。ただ私が気になるのは、そうした八重の戦い方とは別に、多くの八重本には、戦った相手の敵兵がどういう存在であったのかへの想像力が少ないのを感じることです。八重の「武勇伝」を肯定しようとすると、相手の「敵」は撃たれて当然のようにどうしてもみなされることが起こります。当時の会津を攻めた「官軍」とよばれた兵士たちにも、遠く九州から派遣された若い兵士たちが多くいたはずで、誰一人好きこのんで、会津で戦おうと思っていたものはいなかったはずです。少年兵もいたと思います。武士の少年たちで結成された白虎隊だけが悲劇の少年兵なのではなく、「西軍」「東軍」それぞれに多くの少年兵が参加させられて、悲劇の死を遂げています。東北の庄内藩では、1121名の兵士の内43名が農民の少年兵士で、最小年は14歳だったと記録されています(千葉徳爾『負けいくさの構造』平凡社1994)。アカデミズムとは縁の無いところで書かれた林洋海『十二歳の戊辰戦争』現代書館2011も、大事なところを問題にしています。

ただ八重の回想の視点でのみ会津戦争、鶴が城の激戦を見てしまうのは公平な歴史の見方とは言えません。それは「武勇伝」にしかすぎなくなります。戦争には戦う者同士の惨劇があり、片方に悲劇があれば、必ず相手方にも悲劇があるわけで、そのどちらにも思いをはせるのが、歴史を後から学ぶものの心得であると思います。片方だけの勇敢さや、悲劇を讃えたりするのは、歴史を「講談」のように見てしまうことになります。戦いの「武勇伝」は、戦いで「人を殺すことをあっぱれと見なすこと」ですから、そこは注意をしなければいけないと思います。特に、なぜ官軍が会津を攻めることになったのか、なぜ会津城下で歴史にまれな非情な戦いが行われたのか、最悪の状況を避ける交渉は本当にできなかったのか、最終的な戦いを誰がどうして決定していったのか・・・最近「歴女」と呼ばれる歴史を学ぶ若い女性が増えていると聞きますが、同女の歴女たちも、そこは冷静かつ公平に歴史を見つめて学んでいって欲しいと思います。

 

※所属・役職は掲載時のものです。