永井隆の『長崎の鐘』

2020/10/20

吉海直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

私の故郷は長崎です。異国情緒豊かな長崎には、ご当地ソングがたくさんあります。ナツメロでは「長崎は今日も雨だった」(クールファイブ)・「長崎ブルース」(青江三奈)・「思案橋ブルース」(コロラティーノ)などが有名ですね。その走りとも言うべきものが、「長崎の鐘」でした。これは昭和24年に『長崎の鐘』という本をもとに作られたものです。サトウハチロー作詞・古関裕而作曲で、藤山一郎が歌って大ヒットしました。そのため翌年には松竹映画として映画化もされています。昭和26年1月3日に放送された第一回紅白歌合戦では、トリとしてこの曲が歌われました。

さて私は、10数年前に爆心地に近い上野町にある「如己堂」を見学するため、故郷を訪れました。わずか二畳一間の小さな「如己堂」の「如己」は、「己の如く他人を愛せよ」という意味で、聖書の一節(ルカ10章27節、またはローマ13章9節)から取られたものです。その「如己堂」には永井隆博士が住んでいました。この永井隆こそは、映画「長崎の鐘」の原作者です(朝ドラ「エール」では永田武で登場)。『長崎の鐘』は、書名からおわかりのように、長崎に落とされた原子爆弾のすさまじさが綴られています。彼は原爆で最愛の妻を亡くし、自らも長崎医大で被爆しただけでなく、右側頭動脈切断というひどい傷を受けていました。実は私の叔父(母の弟)も当時長崎医大の学生で、その日もいつものように大学で講義を受けていて被爆し、帰らぬ人となりました。母と祖母がせめて遺体でもと手を尽くして探し回ったそうですが、結局本人と判別できる何物も発見することはできませんでした。

この本を読むと、日本は同情すべき被害者であり、むしろ原爆を投下したアメリカの方が世界中から非難を受けかねないということで、なかなか出版の許可がおりませんでした。原稿が書き上げられてから3年後、占領軍のまとめた「マニラの悲劇」、これは日本軍がフイリピンでどんなに残酷な行為を行ったかについての記録なのですが、それと抱き合わせにすることを条件に、ようやく出版が許可されたといういわくつきの本でした。

私は最初軽い気持ちで、東京出張の折にこの本を携え、新幹線の中で読んだのですが、読んでいるうちに涙が溢れ出てきたので、恥しくなって本を閉じてしまった経験があります。原爆によって灰塵に帰した長崎では、原爆で死んだ人は地獄に落ちると言われたそうです。また原爆はうつると言われ(風評被害)、かろうじて生き残った被爆者は差別を受けました。やっとの思いで復員してきた人も、家族や家を失って生きる希望をなくしていました。

そういった人たちに向かってカトリック信者である永井隆は、浦上天主堂の上空で爆発した原爆は、神への燔祭(はんさい)(神へのささげ物として動物を丸焼きにして供えること)であり、その尊い犠牲によってようやく戦争が終結し、世界の平和が再来したのだと説いています。生き残った人間は、天国への入学試験の落第生なのだから、この長崎に踏みとどまって復興に努めなければならないと呼びかけたのです。そうすることがキリスト教の信仰の証だと、原爆の意味をそのように解釈しているのです。私はその文章に、永井隆のヒューマニズムと、真の信仰の尊さを見たような気がしました。

実際、永井隆は自ら被爆していたにもかかわらず、医師としてすぐに救護班を組織し、多くの被爆者達の応急手当を行っています。そのため妻の緑さんの安否を確かめる暇もありません。手当が一段落したので、ようやく家に帰ってみると、もちろん家は原爆で無くなっていたのですが、かつて台所があったところで、黒く焼けて塊と化した緑さんの亡骸を発見しました。その亡骸の傍らには、緑さんが愛用していたロザリオが落ちていたそうです。

 「長崎の鐘」とは、浦上天主堂にかかげられていた、お祈りの時刻を告げるアンゼラスの鐘のことです。原爆投下の翌日に天主堂が炎上した際、50メートルの高さから落下したにもかかわらず、ひび一つ入らずに無事に掘り出され、その年のクリスマスの日から、再び平和の鐘として鳴らされています。永井隆は、その鐘が世界の終わりの日まで鳴り続くことを祈って、自著の題名に付けたのでした。作詞家のサトウハチローにしても、最初は乗り気ではなかったそうです。ですがこの本を読んで感銘を受け、神様が自分に歌詞を書けと仰っていると思い、全身全霊を捧げて作詞したそうです。歌詞の中に原爆のことは一切触れられていません。もっと大きな心で、敗戦ですさんだ日本人の心に慰めと生きる希望を与えているのです。古関裕而もその歌詞を最大限に生かすため、短調から長調へ転調させるという手法を取り入れています。

永井隆は昭和26年5月1日、白血病悪化により43歳の若さで亡くなりました。市営坂本国際墓地に妻の緑さんと一緒に埋葬されています。その墓の石板には、「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(ルカによる福音書第17章10節)と刻まれています。令和2年は、「長崎の鐘」が上映されてからちょうど70年目に当たります。

 

 

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