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なぜ人類は音楽を必要としてきたのか

2026/02/27

もしこの世界が音楽の存在しない世界だとしたら、私たちの生活はどうなるのでしょうか。たとえ音楽という文化が消滅したとしても、人類は生物として生命を維持することはできるのかもしれません。では、なぜこれまで人類の歴史に音楽が存在し続けるのでしょうか。

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音楽の起源と進化:人類は“音楽する存在”である

歴史を振り返ると、約3万5,000年以上前、最古級の確実な証拠のひとつとして、ドイツ南部にある石器時代のホーレ・フェルス洞窟遺跡で骨や象牙のフルートの破片が複数発見されました。これは当時既に確立した音楽的伝統があったことを示しており、社会的コミュニケーションや集団形成に影響を与えていた可能性があります(Conard, et al., 2009)。また、現存する民族誌や比較文化データの範囲では、歌やダンスは多くの文化に見られ、ほぼ普遍的に観察されています。音楽の構造は文化差が大きい一方で、人類が音楽の存在を必要とし、社会的に用いるという「行為」そのものは、人間の進化の上で根源的であり、非常に広範に見られる文化的実践とされています(Honing, 2018; Mehr et al., 2019; Nettl, 2000)。私たちが話す際、それには音程があり、それが対話となれば即興的なやり取りになります。神経心理学研究でも、韻律と音楽パターン処理の関連が示唆されています(Patel, et al., 1998)。また、太古より宗教の儀式などに利用され、哲学・医療においても例外ではなく、古代ギリシャの一部の思想では病気は調和の乱れからであり、音楽には魂や身体の秩序を回復する力があると論じられていました(Ravasio, 2021)。つまり、人類は歴史的・文化的にほぼ例外なく「音楽する」存在であり、人類の進化や社会形成の過程において一定の適応的機能を担っていた可能性が示されています。

音楽と医療:音楽は病気を治すのか

人間の生活と深く関連しているとはいえ、音楽が悪性腫瘍を取り除く、病原体を根絶する、折れた骨を癒合させるなど、病気そのものを治す薬の役割や病因を取り除くといった一次治療の代替になることは示されていません。しかし、音楽が病気の経過・症状・回復の過程に多くの影響を与え、治療効果を高める傾向にあることについては、音楽療法(音楽療法士が直接音楽的に介入)および音楽医療(医療者が録音音源を用いる介入)に関する臨床試験・システマティックレビューにより、痛み・不安・抑うつ、血圧や鎮静薬使用量などのアウトカムで改善が示唆されています(Aalbers, et al., 2017; Bradt, et al., 2021; Cao, & Zhang, 2023; Chlan, et al., 2013; de Witte, et al., 2025)。音楽療法士との関わりの中で生まれる音楽体験を通して意図的に整えられる治療環境は、物理的空間にとどまらず、対人関係の質、安心感、参加のしやすさ、意味づけの枠組みといった要素を含むものとして捉えられてきました。こうした「関係性」や「環境」を整える働きは、質的研究や実践知の蓄積として論じられており、生活の質、意味生成、レジリエンスなどに影響を与えることが示唆されています(Ansdell, et al., 2010; Pavlicevic, 1997; Ruud, 1998; Ruud, 2010)。言うなれば、人間がすでに持ち合わせている「生きようとする力」に自身で改めて気づき、それを維持し高めることへ貢献できる可能性があるわけです。

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cureとcareの違いから考える“治る”ということ

そもそも「治す」「治る」とはどういう状態を指すのでしょうか。どの文脈で捉えるか次第ではありますが、医学モデルでは、病因を除去する治療(cure)に重心が置かれ、苦痛の経験や生活の再編を支えるケア(care)とは区別して論じられてきました(Jecker & Self, 1991)。痛みや苦しみは「身体」によってではなく、その「人」が経験しています。ですから、病気の原因そのものが消えるかどうかとは違う次元で、対象者がその状況に対して、どう向き合うかを支えるケアの必要性があるわけです。人間学的視点で捉えた場合、治療とは、その人を体・心・存在の意味を統合した全人的存在としての回復を意味し、「治る=検査値が正常」ということではないことを示しています。身体機能の回復のみならず、思考や感情、社会的つながりによる総合的な健康観についてはWHO憲章を通しても伝えられていますし(World Health Organization, 1948)、緩和ケアの定義においては、上記に加え、スピリチュアリティといった人間の生きる意味や存在価値の充足に関しても加えられています(World Health Organization, 2020)。そのため、医療現場ではInterdisciplinary Teamと呼ばれる、専門間で計画・評価を共同で行う学際的多職種協働チームによって実践されています。
音楽体験は、生命維持のための絶対必需品ではないかもしれません。しかし、私たちの生活を豊かに、意味深く、そして他者やコミュニティとつながりながら、より「人間らしく」生きるためには極めて必要性の高いものなのではないでしょうか。「なぜ人類の歴史に音楽が存在し続けるのか」についてのヒントはそこにあるのかもしれません。音楽は、人類が社会を築き、自己を形成し、他者との絆を結ぶために進化した、心理的・社会的・認知的・精神的構造そのものとして捉えると、単に娯楽としてではなく、「人間とは何か」を決定づける、人類にとっての基盤的行為として考えられます。

音楽療法とは何か:理論とエビデンスに基づく実践

音楽の楽しさ「それ自体」を目的とするのではなく、音楽のもつ機能を「手段」として応用し、対象者に直接関わりながら変化を観察・考察し、その効果を評価する専門職が音楽療法です。人が生活する上で、あるいは生きていく上で困りごとや障がいがある時、治療やケアが進みやすくなるよう対象者の「状態」を整えるために、専門の訓練を受けた音楽療法士が理論やエビデンスに基づき計画的に介入します。対象者を一方的に変えようとするのではなく、言葉にならない、または言語化される以前の内面に働きかけ、本人の気づきによって変化が生じるための音楽的な「関係性」や「場」を構築し、それらを守ります。不安や痛みといった治療に影響する要因にも働きかけながら、医学的治療と並行して実施することで、対象者が自らの人生と向き合い続けられるよう支援します。そのため、実学である音楽療法の学びには、音楽(演奏・歌・即興・音楽理論)に関してだけではなく、心理学(発達・臨床・コミュニケーション)、医学・福祉の基礎知識、音楽療法の理論・技法、そして倫理や自己省察といった臨床における能力などが含まれます。とりわけ、音楽療法士には「音楽的対話力」が強く必要とされ、音やリズムを通した応答、注意、関係形成を含む営みを指します(Bergstrøm-Nielsen, 2015)。そして何よりも、臨床の目的に応じて、これらの学問領域を横断的・統合的に活用できる能力こそが、専門職としての音楽療法士に求められます。

音楽は“より良く生きる”ための基盤である

音楽の進化的背景と医療的応用の両面から見ても、なぜ人類の歴史に音楽は存在し続けるのか。それは人間の“生”に多方面から働きかけ、生き延びるためだけでなく、その日、その瞬間を「より良く生きる」ために、相当の必要性があるからなのではないでしょうか。

参考文献

  • Aalbers, S., Fusar-Poli, L., Freeman, R. E., Spreen, M., Ket, J. C. F., Vink, A. C., Maratos, A., Crawford, M., Chen, X. J., & Gold, C. (2017). Music therapy for depression. Cochrane Database of Systematic Reviews, 2017(11), Article CD004517.
  • Ansdell, G., & Meehan, J. (2010). “Some light at the end of the tunnel”: Exploring users’ evidence for the effectiveness of music therapy in adult mental health settings. Music and Medicine, 2(1), 29–40.
  • Bergstrøm-Nielsen, C. (2015). Dialogue in music therapy: Its role and forms. Voices: A World Forum for Music Therapy, 15(2).
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  • Cao, M., & Zhang, Z. (2023). Adjuvant music therapy for patients with hypertension: A meta-analysis and systematic review. BMC Complementary Medicine and Therapies, 23, Article 110.
  • Chlan, L. L., Weinert, C. R., Heiderscheit, A., Tracy, M. F., Skaar, D. J., Guttormson, J. L., & Savik, K. (2013). Effects of patient-directed music intervention on anxiety and sedative exposure in critically ill patients receiving mechanical ventilatory support: A randomized clinical trial. JAMA, 309(22), 2335–2344.
  • Conard, N. J., Malina, M., & Münzel, S. (2009). New flutes document the earliest musical tradition in southwestern Germany. Nature, 460(7256), 737–740.
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  • Nettl, B. (2000). An ethnomusicologist contemplates universals in musical sound and musical culture. In N. L. Wallin, B. Merker, & S. Brown (Eds.), The origins of music (pp. 463–472). MIT Press.
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  • Ruud, E. (1998). Music Therapy: Improvisation, Communication, and Culture. Barcelona Publishers.
  • Ruud, E. (2010). Music therapy: A Perspective from the Humanities. Barcelona Publishers.
  • World Health Organization (1948). Constitution of the World Health Organization. World Health Organization.
  • World Health Organization. (2020). Palliative Care Key Facts.
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