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戦後80年目の新発見 「のらくろ」幻の連載が示すもの
先日、戦前の人気マンガ「のらくろ」に関する新たな発見が報じられました(『読売新聞』2025年6月26日朝刊)。報道によれば、戦時中に発行された『戦時版よみうり』という新聞で1944年の3月から10月にかけて「のらくろ」の連載が行われていたというのです。この連載はこれまでマンガ研究者の間でも知られておらず、実に80年ぶりの発見となります。「のらくろ」は日本のマンガ史において重要な作品として注目されてきましたが、この連載はなぜ幻となっていたのでしょうか。そして今回の発見は、どのような意味を持つのでしょうか。
子供向けマンガのブームを生んだ「のらくろ」
1931年から大日本雄弁会講談社(現在の講談社)の雑誌『少年倶楽部』で連載された「のらくろ」は、その人気と影響力から戦前の子供向けマンガを代表する作品として知られてきました。1980年代にもこの作品を原案にしたアニメ「のらくろクン」が放送されていましたから、口周りと手足の先だけが白い黒犬「のらくろ」の姿を記憶している方もいるかもしれません。連載当時の人気は絶大で、このヒットがきっかけとなりストーリー性の高い子供向けマンガの一大ブームが起こりました。「のらくろ」の後を追うように雑誌でのマンガ連載やマンガ本の出版が相次ぎ、現在のようなマンガ文化の基盤が築かれていきました(図1)。
(図1)1930年代の子供向けマンガ本。上段左から、謝花凡太郎『マンガ遊撃隊』(中村書店、1935年)、謝花凡太郎『兵隊ドンちゃん』(中村書店、1934年)、『コドモマンガ 笑の缶詰』(榎本法令館、1933年)。下段は新関青花『トッカン水兵』(中村書店、1934年)。
軍隊を舞台とした作品と戦時体制下の出版統制
犬の軍隊に入った主人公が失敗を重ねつつも昇進していくという「のらくろ」の物語は、戦争への機運が高まっていた当時の世相を色濃く反映しています。この時期の子供向け出版物では軍隊や戦争は定番の題材でした。ただし、当時の政府は必ずしもこのようなマンガを歓迎していたわけではありません。むしろマンガは非教育的なコンテンツとして批判の対象になることもしばしばでした。特に1930年代末ごろから社会全体が戦争のために管理される、いわゆる「総動員体制」が確立していくと、雑誌を含む出版メディアも政府の統制を受けるようになり、マンガは次第に子供向けの出版物から排除されていきました。
連載中止と戦争協力回避 ― 田河水泡の回想
『少年倶楽部』での「のらくろ」の連載は比較的長く続きましたが、それでも1941年10月には連載を終了しています。作者の田河水泡は後年、連載終了の背景に政府や軍部からの圧力があったと語り、次のように振り返っています。
当時はさまざまなメディアがプロパガンダのために用いられ、戦意高揚を目的としたコンテンツも増えていました。一方、田河が言うように「のらくろ」はこうした状況が悪化する前に連載を終えたことで、軍隊を舞台としながらも露骨な戦争協力やプロパガンダにはならなかった作品と考えられてきました。しかし、今回『戦時版よみうり』での連載が発見されたことにより、「のらくろ」の評価も改めて検討が必要となっています。
忘れられた『戦時版よみうり』と幻の連載
『戦時版よみうり』は1944年から45年にかけて読売新聞社が本紙とは別に発行していたタブロイド判の新聞です。戦況ニュースや戦争協力を促す記事が中心で、強い戦時色を帯びていました。同紙は各地の図書館やアーカイブにもほとんど所蔵がなく、今回、九州大学の永島広紀教授が発見し整理するまで存在自体が忘れ去られていました。こうした資料へのアクセスの難しさに加えて、田河自身が生前に言及しなかったことも同紙での「のらくろ」連載が幻となっていた原因と考えられます。ひょっとすると、田河はこの新聞の戦時色の強さを気にして後年のインタビュー等ではあえて語らなかったのかもしれません。
戦後80年目の問い ―「のらくろ」再検討の必要性
この発見によって「太平洋戦争末期には『のらくろ』は連載されていなかった」という定説は覆ることになりました。とはいえ、依然として不明な点は多く残されています。なぜ『少年倶楽部』とは大きく性質の異なる媒体で連載をすることになったのか。田河自身はこの連載のことをどのように考えていたのか。そして『戦時版よみうり』に連載された「のらくろ」は田河が危惧したような「露骨な戦争協力」と言うべき内容だったのか。まずは丁寧に資料を検討することから始めなければなりません。幸いなことに、今回発見された『戦時版よみうり』はこの8月から読売新聞のデータベース「ヨミダス」で公開されています。戦後80年という節目に姿を現したこの資料は、マンガ史だけでなく戦時下のメディアのあり方についても新たな発見をもたらすものかもしれません。
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