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音楽家はつらいよ

2025/04/21

先日、卒業生たちがコンサートをやるというので聴きに行きました。小さなギャラリー&カフェでアップライトピアノを使って、10人くらいのお客さんを前にして、彼女たちは熱演を繰り広げました。しかし、彼女たちはけっしてプロの音楽家として生活を成り立たせているわけではありません。音楽ホールで仕事をしたり、カフェ店員をしたり、非常勤教員などをしながら、好きな音楽を続けています。なかなか音楽家として生きていくのは大変なのです。

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雇われから独立へと変遷した18世紀末の音楽家たち

実をいうと、歴史上有名な音楽家たちもこれで苦労していました。音楽家たちが自ら生活費を稼がなければならなくなったのは、ちょうど18世紀末、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの「ウィーン楽派」の頃です。 この3人のステータスの変化がたいへんに興味深いものです。彼ら以前の音楽家たちは、宮廷や教会などの「お雇い音楽師」として生きていました。ハイドンは定年で職を退くまで、ハンガリーの大貴族エステルハージ家の宮廷楽長として働いていました。つまりはお抱えの召使の立場です。彼より若いモーツァルトはどうかというと、若いころは生まれ故郷のザルツブルグ大司教に仕えていましたが、あるとき喧嘩をして出て行ってしまいます。「貴族たちとではなく、召使いたちと一緒に食事をとったりするなんて、なんて待遇だ!」と不平を言っています。その後は、いわゆる「フリー」のピアニスト・作曲家として、亡くなるまで貧乏生活を続けました。お父さんが、彼の就職のことを大変に心配している手紙がいく通も残っています。

音楽家の地位が向上したベートーヴェンの時代

徐々に音楽家としての社会的ステータスが高まっていっているのが感じられます。ベートーヴェンになると、もう貴族たちと自分は同等だと思っていました。あるとき、友人のゲーテと散歩をしていると、皇族の一行とすれ違いました。政府高官であるゲーテはすぐに道の脇に寄って頭を垂れていましたが、ベートーヴェンは帽子も取らず一歩も道をゆずらなかったそうです。若いころはピアニストとして、そして耳が聞こえなくなってからは高名な作曲家として生計を立てていました(しかし、多くのパトロンからの援助もあったようです)。ちょうど当時は、フランス革命などで貴族や教会の権威が失墜し、かわって市民階級の経済力が徐々に強くなってきていました。彼らが楽譜を買い、自ら音楽を楽しみ、公開演奏会やオペラに出かけていくことで、音楽界の経済は回るようになってきていたのです。しかし、ベートーヴェンの住んでいたウィーンはまだまだ小さい都市だったので、経済的に苦しい時期には、より音楽需要のあるロンドンへの移住も考えたことがあったようです。

弟子をとり、学校で教える時代となった19世紀

19世紀になると、音楽家たちはいろいろな手段で生活費を稼いでいます。ショパンやリストは、ピアニストとしてのコンサートもその手段ですが、多くの弟子(裕福な貴族や市民が多い)をとってレッスン料で生きていました。音楽学校の先生という手もあり、メンデルスゾーンやシューマンはライプツィヒ音楽院で教えてもいました(あまり儲かったという話は聞きませんが)。

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(ピアノ教師としてのショパン)
出典:WIKIMEDIA COMMONS

副業を持つ音楽家も多かった

有名な「副業」音楽家の例は「ロシア五人組」の面々にみられます。ムソルグスキーが陸軍の軍人(のち官僚)、リムスキー=コルサコフが海軍士官、そしてボロディンは医師・化学者で、特にボロディンの化学者としての業績は今でも高く評価されているようです。同じころのフランスではシャブリエが内務官僚、ルーセルが海軍軍人などでした。変わり種は、アメリカの作曲家アイヴズで、彼は保険会社の社長でした。
最後に私が伝記を発表したふたりの作曲家についてお話ししましょう。フランス近代の作曲家、デオダ・ド・セヴラックと、スペイン現代の作曲家、フェデリコ・モンポウです。セヴラックは衰退した地方貴族の出身でした。若いころパリに出てきて音楽を学び、最初はそこでキャリアを積もうとも考えたようです。しかし、お金はない。当時ついていた先生は、裕福な大貴族であるヴァンサン・ダンディで、「ダンディ先生のようにお金がたくさんあれば苦労はないのだが」と語った手紙が残っています。そこで、窮余の策として、実家の料理人のつくる「とてもおいしいパテ」をパリで売り出そう、という考えを持ちます。しかし、これは条件が整わず実現しませんでした。一方のモンポウですが、彼もまたパリで音楽を学び、音楽活動を始めますが、生活費を稼ぐために、出身地のバルセロナでフランスのアイスクリームを売り出したらどうか、という考えを持ちます。特許を取得し、アイスクリーム製造法を学んだ上で、資本を集めて、売り出すまでに至ります。しかし、バルセロナの夏は予想外に暑かった。そのうえ、当時のスペインの技術水準なのか、冷蔵庫はあっても、冷凍庫はありませんでした。これではひとたまりもありません。すぐに彼のアイスクリーム事業は失敗してしまいました。

音楽家の苦労とその価値

音楽家は(芸術家一般は、かもしれませんが)、生きていくのはなかなかつらいよ、というお話しでした。しかし、そのようなつらいものだけれども、その道はそれだけの価値があるものだということは強調しておきたいと思います。古今東西の苦労した音楽家たちの素晴らしい作品がそれを物語っているではありませんか。

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