2024年7月 今月のことば

2024/06/28

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 《ヨハネによる福音書 3章16節》
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より

 


忌憚なく本音を明かすと―予てよりこの言葉を信じることができないでいる。というよりも、われわれ人間が神に愛されるに足る存在である、という自信をもつことができないのである。

「関心領域」という映画を見た。ユダヤ人を中心に多くの人びとを死に至らしめたアウシュビッツ強制収容所の隣で、平和な生活を送る一家の日々の営みを描いたものである。残虐な映像は一切出て来ず、効率的に人を殺める施設から上がる阿鼻叫喚と、その隣で豊かに育つ子供たちの笑い声とが交じり合う音声の中に、観客は放り込まれる。観覧前、数々の受賞歴の背景にはガザ攻撃を射程に入れた政治的な意図があるのだろうかと考えていた己の浅薄さを恥じた。

この映画はナチス=「悪」という単純な構図を採らない。エンドロールを見た時、おそらくみな、こう思ったことであろう。―これはわたしたちの物語だ。
人間は自分の生活を守るために、隣で起きている暴力を関心の外に置くことができる。われわれは時に「悪魔のようだ」「人間の仕業とは思えない」「鬼畜の所業」という表現を以って残虐な人間の行為を表現する。しかし、関心の外に置く「様式」を作り上げてしまいさえすればどんなことでも受け入れてしまえる、それが人間なのだ、と突き付けられた。突き付けられた。
そう、だからこそ「日本人」は、入管施設でおぞましい虐待が行われていたことを知りながら、毎朝スターバックスでラテを買い、出勤することができてしまう。

こんなわれわれに果たして神の愛をたまわる資格はあるのか。もしかすると宗教学の長い蓄積の中で何度も繰り返された問いなのかもしれない。
宗教主任2年目、依然として蒙昧なままのふがいない我が身である。 
 

(N.O.)