2024年1月 今月のことば

2024/01/05

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

(創世記 1章31節)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より

 


 

あなたは自身をどのように評価しているだろうか?日々の忙しさや漠然とした将来への不安、周囲の期待に応えるため感じるストレスなど、私たちは多くを抱えて毎日を過ごしている。結果や能力の有無で存在意義を求められ、また自身でさえも同様に評価してしまう。実に生きにくい世の中であると感じる。

しかし聖書には、私たちが今こうやってここに存在していることが、既に神にとって「極めて良い」とあり、素晴らしいことであると伝えてくれている。それはまるで、我が子が生まれた時「生まれてきてくれて本当にありがとう」と、その子を囲む家族が心から喜んでいるのと変わらないのだろう。ただただ無条件に目の前のか弱い存在が愛おしく、精一杯泣きながら生きようとしている様子を心から大切に思い見守っているのと変わらないだろう。私たちはありのまま存在していることだけで、神に十分に喜んでもらえている。そう考えると大きな安心感に包まれる。

親は、我が子を社会の中で何かの役に立たせるために、この世に迎えているのではないと信じている。親のもとに生まれてきてくれたこと、そのこと自体が喜びであり全てであると信じている。その尊い存在が、その先関わる社会でただ結果として何かを行なっていくだけなのだ。

私たちの生きづらさや不安、苦悩の原因のほとんどはこの社会生活の中、対人関係から生まれてくる。自身の価値を他者と比較したり、また比較されたりすることで苦悩は生まれ、自身を責め相手を責め、その苦悩を解消しようともしている。そのような時はいつも、私たちの存在そのものが神に「極めて良い」とされている事実を思い返したい。神の目に尊い私たち個々がもしも困難に思う時があるならば、赤ん坊が精一杯泣きながら生きようとするかのように純粋な思いで助けを求めて祈り、その時に持てる力でほんの少しでも一歩前に踏み
出せれば、きっとそれで良いのだろう。思いがけないことが起こる不確定な世の中でさえ、何かに挑戦している我が子を優しく見守る親のように、神はそこで私たちの成長をきっと願っているに違いない。 

(F.K.)