2022年9月・10月 今月のことば

2022/09/26

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(ローマの信徒への手紙 12章9~15節)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より


随分前になりますが、親しい人が突然病気になり、心の障害を負うことになりました。彼がその現実を受け入れるまでには長い時間がかかり、本人、そしてその家族も、目の前のことはもちろん、将来のことを悩みながら生きる姿を間近でみてきました。そうした経験から、問題は解決しなくても、人が生きていく上で励みとなり大切だと思った「共感すること」について考えてみます。

私たちは普段、他者の喜びや悲しみを共有することができると思っていますし、実際ある程度まではそれが可能です。しかしどこまで本当にそれができるかは疑問です。辛く、悲しい状況にある人々に同情し、一時的に涙を流すことはできても、その人々の悲しみを自分のこととして受け止めることがどこまでできるかはわかりません。さらに、泣く人と共に泣くことはできても、喜ぶ人と共に喜ぶことは、なお一層難しいことかもしれません。自分も喜ぶべき状況にある時ならまだしも、自分は辛く、困難な状況にある時に、他人の喜びを素直に喜ぶことのできる人はむしろ少ないのではないでしょうか。また、起きた出来事ひとつひとつに一喜一憂していては精神がもたないとして、年齢を重ねて鈍感に生きる術を身につけることもあるかもしれません。そう考えると「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」というのは、決して当たり前のことでも簡単なことでもありません。

コンピュータや携帯電話の普及に伴い、私たちはメールやチャット、機械を通じて誰かと会話することが多くなりました。それは、時にはまだ会ったこともない相手であったり、友人であったりもします。電車の中で数人の若者が並んで座っていながらもお互いに隣の人には目もくれず、ひたすら携帯電話の画面とにらめっこをしている光景は一種異様な感じさえします。そのような人間関係はいかにも現代的で、ある意味で便利でもありますが、他方では顔と顔を合わせて語り合う時のように、相手の息吹を身近に感じることのできるような生身の関係とは少し違う、どこか無機質な人間関係であるような気がします。

このような、人の心にうるおいが乏しくなってきているこの時代の中にあって、少しでも他者に関心を抱き、苦しみや悩みの中にある人々の傍にそっと寄り添い、他者の喜びや悲しみに心を寄せていきてこられたイエス・キリストのように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことのできる人になりたいものです。

(L)