2022年7月 今月のことば

2022/07/01

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。

(マタイによる福音書 23章1~4節)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より


 

私は同志社女子大学に来る前、東京の理系大学で一般教養の文学や英語を教えていました。そこで知り合った学生のひとりが文学の授業中に言ったひと言が、今も忘れられません。それは、

「今の時代は多様性が大事だというけれど、むしろぜんぜん多様じゃない」

というものでした。多様性の時代なのにむしろ価値観は画一化しているのではないか、という彼のことばを聞いた時、はっとさせられましたし、その学生を別の授業で知っていたこともあり、その言葉の背景にある「息苦しさ」のようなものがより伝わってきました。彼は人とのコミュニケーションをとることが得意ではなく、その取り方も少し独特でした。

この出来事は2015年頃のものです。それから7年、2022年を迎える現在の私たちは見えない義務や「標準」という枷(かせ)に、より強く拘束されているように感じます。そしてこの「息苦しさ」は、知らず知らず、人を蝕んでいる。特に若い世代は、一見それまでと変わらない風でいながら、内面では多くの葛藤を抱えています。あるいは、本人さえも気づかないままに時が過ぎ、ある時精神の不調を感じて病院を受診するとうつ症状だと診断された、ということも珍しくありません。

村上春樹は「めくらやなぎと、眠る女」という短編で、知らず心が蝕まれていくことを「損なわれる」ということばで表現しました。義務だらけの世界、守らなければいけないことばかりに追われている環境では、ひとは次第に日々をやり過ごすようになり、「損なわれ」、何も考えることできなくなってしまうでしょう。

今回引用させていただいた聖句は、一見、今私が述べてきたことと関わりがないように見えるかもしれません。しかし、律法学者やファリサイ派の人々が律法という「ルール」、あるいは「正しき」ことを声高に叫ぶ世界の「あり(よう)」は、現代のルールを至上とする日本の状況に大いにつながっているように感じます。「重荷」を人に課すことは簡単です。しかし、「指一本」貸すことなくそれを人に課すことの意味を、わたしたちは改めて考える必要があります。コロナ3年目の今、自由と愛の意味を今一度自らに問いかけたいと思います。

(S.F.)