2021年11月 今月のことば

2021/11/01

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

(ルカによる福音書 8章5~8節)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より


「君は如才ないなぁ」

これは私が今でも忘れられない、恩師からかけられたことばの一つです。

「如才がない」――辞書を引けばそこには「気がきいて、抜かりがない」(『デジタル大辞泉』)こととあります。ことばそれ自体としては良い意味だと解釈することも可能でしょう。しかし、恩師がこのことばで謂わんとしたことは、「気はきいているかもしれないが、芯がなく」、しばしば時流に流されてしまいがちな私への戒めでした。

最初そのことばを耳にしたとき、私は心の中で反発しました。その当時、場の雰囲気に流されることなく、信念をもって課題に取り組んでいることに少なからず自負があったからです。しかし今思い返すと、そのことばの意味を正確に理解できたのは、ずいぶんと後になってからのことでした。そしてまた、そのことばを思い出すたび、現在の自分も当時とあまり変わらず「如才がない」ことに気づき、愕然とします。

「ことば」という種が「こころ」という大地に芽吹くには、その大地が大切だと、聖書は述べます。本当にその通りだと思います。それは神の「みことば」であっても、キリスト教を離れた世俗の恩師のことばであっても、変わらないでしょう。ことばを受け止めるだけの大地を自らが醸成しなければ、そのことばは決して芽を出すことがありません。

しかし同時に、聖書は「芽を出すこと」と「実を結ぶこと」の違いも述べています。たとえ芽を出したとしても、水がなければ枯れてしまいます。また、ひとは忘れやすく、別のことにこころが向いてしまえば、「いばら」が生え、実を結ぶまでには育ちません。根付き、花が咲き、実を結ぶには、芽吹いたその芽を大切に育てていかなければいけないのです。

恩師の戒めのことばと共に、そのことばを羅針盤としながら、それがいつか大きな実りにつながる日が来るよう、日々をきちんと生きなければと思いを新たにしています。

(S.F.)