2019年9・10月 今月のことば

2019/09/26

人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。神に従い正義を行うことはいけにえをささげるよりも主に喜ばれる。高慢なまなざし、傲慢な心は神に逆らう者の灯、罪。


(箴言 21章2節~4節)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より


ひどく右手が痛くなり、かばんを持つことはおろか、箸を持つのも難しくなった。受診したが、芳しい効果は得られず、何をするのも普段の何倍も時間を要した。見た目はなんら変わりない、今までの自分だけど、日常の動作一つ一つが怖く、時間がかかり、慣れない左手での操作はもどかしいものであった。

それでも、家族や同僚に支えられながら毎日を過ごしていた。申し訳なさや情けなさはあったけれど、温かくサポートしてもらえることがありがたかった。怖かったのは見知らぬ人々だった。混雑する場所で、右側に不意にぶつかられるとひどく痛んだ。改札口で左手でカードをかざすのに手間取ったり、レジでお金を支払うのに時間がかかったりすると舌打ちされる。それまで健康な大人として生活していた自分が社会に迷惑をかける存在だといわれたように感じた。 見かけは何らほかの人と変わりないのだから、その見知らぬ人々に悪気はないのだろう。客観的にはそう思えるのだが。

今までできていたことができなくなるいらだち、先々の不安、痛みへの恐れ、さまざまな思いがすべてネガティブな方向へ向かう。幸い、よく効く薬のおかげで、痛みは治まり、右手も使えるようになった。あの数週間は何だったのだろうと思えるくらいである。当たり前に思っていた以前の生活が送れることの幸せを実感している。

社会にはさまざまな人がいて、いろいろなことを背負っている。今なら、あの時ぶつかった人や舌打ちした人はなにか急ぐ事情があったのかもしれない、周りに心を配る心のゆとりのない何かがあったのかもしれないと思える。あの時の私は自分のことに精いっぱいで被害者面していた。人は自分を中心に物事をとらえてしまうし、キャパシティの小さい私は何かあると本当に周りのことは見えなくなってしまう。

目にはみえないことも多い。自分の目が曇って、あるいは視野が狭くなって見えなくなることもある。多くのことを学んだ経験であった。とはいえ、あの痛みはもう経験したくはないけれど。

(Elbow H)