2019年11月 今月のことば

2019/11/01

二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

(ルカによる福音書 18章10節~13節)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より



皆さんは、ファリサイ派の人と徴税人のどちらをよしとするだろうか。聖書は、「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではなかった。」と説くのだが、如何だろうか。

実は私は若い頃にこの箇所を読んで、納得がいかなかった。ファリサイ派の人だって、自分なりには正義のために努力しているのに、こんなふうに神に否定されるなんていくらなんでも気の毒だと感じた。

しかし年齢を重ねるにつれて、自分だけが正義だと思うこと、他者を不正だとして否定することは、きわめて危険だと思うようになった。

若い頃私は、悪の帝国やテロリストは悪いことを考えて悪いことをしているのだ、悪徳政治家や悪い資本家は国や国民を平然とないがしろにして自分の利益だけを追求しているのだ、と何となく思っていた。

しかし悪の帝国に見える国も、残酷なテロリストに見える人も、おそらく自分たちのつもりでは正義のために戦っているのだ。世の中には絵に描いたような悪徳政治家や労働者から一方的に搾取する非道な経営者がいるわけではない。彼らも自分たちなりには国のため社会のために働いているつもりなのだろう。

自分だけが清く正しくパーフェクトな存在であると思うことは、他者を蔑視し他者を全面的に否定することにもつながりかねない。自分が悪人だと思って悪いことをする人より、自分だけが善だと思っている人の方が残虐な行為をしかねない。自分にとっての正しい行動が他人にとっては正しくない行動であるかも知れないという想像力を持つことが大切なのだろう。

皆さんは、政治や経済なんて大きな問題も正義や悪も自分とは無関係だと思うかも知れない。でもたとえば私たちが外国製の安い商品を買うこと、大量に買いだめをして賞味期限が切れてしまった食べ物を捨てること、そんな日常生活の中の行為にも、罪深さは潜んでいる。私たちの一つ一つの生活も行為も、実は広い世界や他者とつながっており、様々な意味を持ち、周りに影響を与えているのだ。まずは自分の外の世界にじっと耳を澄ましてみて欲しい。

(零余子)