2013年7月

2013/06/27

 マザー・テレサの紹介者の一人、ジョセフ・ラングフォードは、『マザーテレサの秘められた炎』の中で、コルカタの街と彼女の関係について次のように述べている。

  

  コルカタはまた、一人ひとりの人間の傷、苦しみから解放された生活を目指して突進する現代社会の中で、踏みにじられ

  忘れられた、世界中の最も小さく貧しく失われた人間の傷のシンボルであった。マザーテレサが深く根をおろして留まった

  のは、まさにわたしたちが逃れようとする痛みの場であった。愛のないところに、マザーは愛を植えた。希望のないところ

  にマザーは復活の種を播いた。すくなくともマザーが接することのできる範囲で、コルカタを真の「喜びの都市」とした。

  (略)

  コルカタの夜空に、一つの光が昇っていった。

 

 またマザー・テレサがコルカタの街に何を見出したかについて、次のように記している。

 

  「貧しい人びとは優れた人たちだ」と誇りに思うような高潔な気質、家族の生気ある絆、文化的豊かさ、考え出す力、器用

  さなどを見いだしていた。そこにはマザーが深く賞賛し限りなく愛する人がいた。

 

 21世紀に入る頃まで、日本は経済大国という冠をもち、世界の貧困の街で哀しみに暮れる若者や子供たちが多くいることを実感することができないような、日本を豊かであるという幻想をいだいている人が多く、第二次世界大戦後の飢えにあえいでいた戦争孤児たちのいたこと、またそれまでの時代にもコルカタなどの街の風景が日本の処々方々にあったことを忘れかけていたのである。

 江戸中期の儒学者中根東里(1694-1765)は、52歳の時に姪子を託された時に、膝にその子を抱き、遠くを見つめ「出る月を待つべし。散る花を追うことなかれ」という言葉を記している。磯田道史は『日本人の叡智』のなかで、かれの生き方について「同じ長屋に病人が出て、貧しくて薬がないと知ると、大切にしていた書物をことごとく売って与えた」と記し、「桜は散っても、月は必ず出てくる。それを待つ時間をどのように大切に生きるか、母を失ったあどけない養女を抱きしめ、この清貧の村儒者はそのことを言い聞かせようとしていた」と綴っている。

 時代も場所も異なる「場」を結びつけて考えることには無理があるかもしれない。しかし傷ついている人にむけられる無償の愛、またその場で育まれる人間の叡智は時空間を越えるものであろう。体験にもとづいて綴る言葉の重みがそこにはある。未来に向かう道を歩むために照らしてくれる光を求める私たちは、むしろ世界に伝えられてきた「叡智」を今一度振り返ってみる時なのではないだろうか。                                                  (ひつじ)