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教員が語る同志社女子大学の学び

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「フィクション」
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「モダニズム」

近現代の文学者が追い求めた
言葉とフィクションの
可能性に迫っています。

日本語日本文学科

高橋 幸平准教授

横光利一というモダニズムの文学者。

大学生のときに横光利一というモダニズム作家に出会いました。横光の小説は、それまで読んできた漱石や鷗外、芥川とはまったく異なるタイプで、とくに彼の代表作の一つである「機械」を読んだとき、それまでにないような衝撃を受けましたね。

「機械」は、ネームプレート工場に勤務する男と、その周囲の作業員との関係を描いた小説です。この小説では、思考とも妄想ともつかない疑心暗鬼の心理が、段落も句読点もほとんどなく延々と語り続けられます。それまで読んでいた「小説」とあまりにも違うので、最初は面食らってしまいました。ところがしばらく読み進めると、あっちへ行ったり、こっちへ来たりという主人公の不安定な意識の流れが、だんだんクセになってくるんです。何というか、心地良い。おそらくそこに表現された意識の揺れは、日常の私たちのそれにすごく近いんです。言われてみれば私たちは、いつも理路整然と思考しているわけではありません。何か大事なことを考えていたはずなのに、偶発的なきっかけで、いつのまにか違うことで頭がいっぱいになっていた、なんてことの方が日常的です。人間の意識や心理の本質とはなんだろうか。それはどのような言葉で表現できるのだろうか。一見、ヘンな小説にも見える「機械」は、人間の合理的な思考そのものを問う、極めて実験的な思想小説だったのです。

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横光利一という小説家はあまり器用な人ではなく、正直言ってつまらない小説も多い。打率で言えば1割を切るかもしれない。でも私にとってはその1割が信じられないような弾道の場外ホームランなんですよね。しかもそれは決してまぐれあたりではない。彼は文学に対してきわめて誠実な小説家でした。自筆原稿を調べるとそのことがよく分かる。自分の言葉を何度も筆で塗りつぶしては書き直しているのです。言葉やフィクションの可能性をとことん追求するという意味で、横光は求道者と呼ぶにふさわしい人物です。実際、研究が進むにしたがって、横光の文学や思想が実は非常に現代的であって、当時の常識をはるかに超えていたということがわかってきています。

横光は、その不器用な手つきで文学理論をも作り上げようとしていました。たとえば、大正時代の映画は、カットバックやクロースアップなど新しい技法を次々と生み出していましたが、横光はそれを小説で、つまり言葉で表現することを試み、理論化しようとしました。映画だけではありません。たとえばこの時代、特急列車や自動車を生んだ新たなテクノロジーは、それまでの世界には存在しなかったスピード感覚を人々にもたらした。横光は、その速さが持つ迫力や暴力性を言語で効果的に表現するにはどうすればよいかを考えました。「その時代の感覚を敏感に捉えること」、そして「それを言葉の芸術に昇華すること」、これが横光の小説家としての一貫したテーマでした。そのプロセスの中で、横光は「言葉」と「虚構」の本質について、独自のアイディアを生み理論化していったのです。

横光のような20世紀の小説家たちが、言葉の芸術としての日本の小説の水準をどのように高めようとしたのか。そして現代に生きる私たちはその試みから何を読み取り、何を読み込むことができるのか。その解明が私の第一の研究テーマです。

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フィクションと人間の奇妙な関係。

純文学という言葉を聞けば、物憂げな文豪が自分の体験を深刻な表情で小説にしている、そんな陰気なイメージが浮かんでくる人もいるでしょう。たしかに、日本の小説にはそれに近い「私小説」の系譜があることも事実です。でも、そのようなイメージだけで近現代の小説を遠ざけてしまうのはもったいないと思います。横光は、小説とは「可能の世界の創造」だと述べました。その考え方はむしろ西洋のフィクション観に近い。現実に起きているわけではないが、「起こり得る」世界。小説家はこの世とは異なるもう一つの世界を作り、読者は語り手と同じ世界を生きる存在になって、その物語に耳を傾ける。フィクションに没入するということは、ひとときの間この世界の存在ではなくなるということです。

小説に限らず、映画を観たりマンガを読んだりしたあと、世界の見え方が少し変わったように感じる人は多いはずです。でも考えてみればそれはとても不思議なことです。たとえば、友人の体験談に感情移入して同情していたのに、「これ作り話なんだよね」と言われたら、同情心が消えるどころか怒り出す人だっているでしょう。なのに私たちは、はじめからフィクションの世界が作り話にすぎないと知っているのに、その内容に影響を受けたり感動したりできてしまいます。

横光の研究をきっかけに、私はそのような「フィクション」と人間との関係に強い関心を持ち始めました。現在は、小説を中心に、人間と文化における「フィクショナリティ」の意味を問う研究を進めています。これが私の第二の研究テーマです。

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フィクションと人間との関係を問う「フィクション論」と呼ばれるこの研究分野では、様々な学問分野の研究者がフィクションの不思議を解明するための研究を進めています。fMRIという手法で、フィクションを読んでいる時に脳のどの部位が活性化しているかを調べたり、文学作品を読むことで他者の心理を推測する能力がどのように高まるかを調査したり。そのような認知科学分野からのアプローチも盛んです。

研究によって明らかになった知見のひとつは、私たちがフィクションに没入しているときの脳の活動は、実際にそのような出来事を経験しているときの脳の活動と似ているということです。レモンの写真を見ると、そこにレモンはないのにツバがわいてきますが、それと同じように、私たちは作品から想像したフィクションの世界に対しても、現実と同じような感情を抱くことができるのかもしれません。だとすると、フィクション世界の経験は、実際の経験に近い強いパワーを持っているということになりそうです。

そもそもなぜヒトはフィクションを創ったり享受したりする能力を持っているのでしょうか。もしかしたら、そのような能力が淘汰されずに残っているのは、生物学上優位な能力だからかもしれません。文学作品によく描かれるテーマ、たとえば、生と死、騙すことと騙されること、恋愛、権力…、なるほど多くの読者が好むこれらのテーマはいずれもヒトの生存と繁殖に関わる問題です。さすがにここまで踏み込んで主張するのは、進化心理学を文学に適用する一部の研究者に限られますが、それでも、フィクションがいかに多様な研究領域から関心を集めているかがよくわかる事例ですよね。

近年、フィクションに関する国際学会がパリで発足しました(International Society for Fiction and Fictionality Studies)。文学だけでなく、哲学や心理学、さまざまな領域の研究者が集まってフィクションについて議論し情報交換する国際学会です。私も創設会員の1人としてこの学会に参加し、各国・各領域の研究者とともに研究を進めています。最近は、すでに評価が決まっているような近現代の文学作品を「フィクショナリティ」という観点から再評価し、新たな日本近現代文学史を構築しようとしています。2022年にはその最初の成果である『小説のフィクショナリティ』という編著書を出版しました。

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フィクション作品を研究することは文化の蓄積に貢献すること。

ゼミでは学生と一緒に、言葉の芸術、つまり文学作品に埋め込まれた仕掛けを発見し、そこにさまざまな物語を読み込んでいます。小説を論じるということは、書かれていない物語をどれだけ読み込むことができるかということです。「まだ誰も読んだことのない傑作」というのはあり得ません。傑作が傑作になるためには、その作品を巧みに読む読者が必要です。書く人と読む人がいるからこそ、ただの文字列が芸術になる。そしてそれが地層のように積み重なって文化の厚みとなる。学生には「この授業で取り組むことは、文字の羅列に意味を与えることだ。読者であるあなたたち一人ひとりが文化の担い手なのだ」と伝えています。

ゼミでは数名のグループを作りそれぞれが作品を担当して発表します。谷崎潤一郎から小川洋子に至るまで、近年では宇佐見りんの作品も取り上げました。発表では「初読では見落とされがちな細部の仕掛けの発見と、それを集めることで見えてくる深層の物語」をゼミのメンバーに伝えることが目標です。単に突飛な発想や解釈では共感してもらえませんし、誰が読んでもわかるような平凡な解釈だと面白がってもらえません。「なぜこの作品は面白いのか」を追究するために、作家の生きた時代や描かれた世界を詳細に読み込んで証拠を集めていきます。そのような仲間の発表を聞くことで、読み飛ばしていた1行に戻って作品の奥深さに気づいたり、それによって、たとえばラストシーンの意味がパッと変わったりします。予習で小説を楽しんで、ゼミでは仲間の解釈を聞いて驚いて。私のゼミはそんなゼミです。

日本語日本文学科がある「表象文化学部」は全国的にも珍しい名称の学部ですよね。私はとても気に入っています。私が卒業したのは「文学部」でした。この「文」という文字の意味するところは、「言葉」によって蓄積された知識です。だから、文学のみならず哲学や歴史も含みます。一方、「表象文化」は「文」だけではなく、映像や絵画など視覚によって蓄積される知も含みます。表象文化は、映画や漫画・アニメなど、20世紀以降に厚みを増してきました。私もふくめてこの学部の教員は、「表象文化」を「文」と同じぐらい、あるいはそれ以上に重視したいという学問的立場にあります。映画、アニメ、マンガ、小説…いろいろな表象文化に興味のある学生にとっては思う存分欲張って学べる学部です。

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受験生のみなさんへ

私は受験勉強で身につけた知識と能力のおかげで、今の自分があると思っています。たくさんの知識は、いつか必ず質に変わります。点をたくさん打つと次第に絵があらわれる点描画がありますね。みなさんはいま受験勉強で少しずつ点をキャンバスにのせはじめたところです。その絵画の全体像はまだ見えないかもしれません。だから時には嫌になることもあるでしょう。でも大丈夫です。あきらめずに点を少しずつ打っていってください。大学の学びを通じてその点が次第に像を結びはじめることでしょう。同志社女子大学で、みなさんの色鮮やかな点描画を見せてもらえることを心待ちにしています。

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高橋 幸平准教授

表象文化学部 日本語日本文学科 [ 研究テーマ ] 近現代文学とフィクションの理論

研究者データベース

卒業論文一覧

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卒業論文テーマ例

  • 樋口一葉「別れ霜」 —男女の心中を描く—
  • 泉鏡花戯曲における幻想と現実 —『夜叉ヶ池』『海神別荘』『天守物語』をめぐって—
  • 谷崎潤一郎「AとBの話」における対立構図の解明
  • 芥川龍之介『白』論 —もう一つの<読者>—
  • 詩人・佐藤春夫とナショナリズム
  • 尾崎翠『第七官界彷徨』論 —<識閾下>の詩と恋—
  • 幻想の中のフェミニズム —吉屋信子「もう一人の私」—
  • 中島敦「古譚」論 —自分とは何か—
  • 夢野久作「押絵の奇蹟」論 —清浄さと悲しみのゆくえ—
  • 太宰治「パンドラの匣」 —『かるみ』への挑戦—
  • 加工される魔性 —坂口安吾作品における魔性の女と魅せられた男—
  • 川端康成「古都」論 —双子が彩る理想の古都—
  • 三島由紀夫『春の雪』 —三島由紀夫の文学観を中心に—
  • 大江健三郎『芽むしり仔撃ち』 —自己の確立と共同体—
  • 横溝正史「金田一耕助シリーズ」論 —昭和期の社会福祉史からみるマイノリティの表象—
  • 村上春樹「スプートニクの恋人」に関するー考察
  • 記憶の深層 —目取真俊「水滴」—
  • 失われたものを求めて —小川洋子『ドミトリィ』論—
  • なぜ物語るのか —三浦しをん『むかしのはなし』論—
  • 伊藤計劃『虐殺器官』論 —アイデンティティの再構築と生き方の選択—