
of Education
Classroom teacher
– Japanese
日本語への情熱が開いた、
海外で働くという選択肢。
「日本語が好き」という想いを生かすべく、あえて海外へ飛び出した卒業生にインタビュー。言葉の壁や日本語教師になるための大学院進学など、さまざまな苦難を越えてきた経緯、当時の原動力について、振り返っていただきました。
夢のきっかけとなった、
日本語を学ぶ子どもたちの姿。
海外で活躍する日本語教師になりたい。そんな夢を抱くきっかけをくれたのは、同女のTJFLプログラムでした。プログラムでは1ヶ月にわたり、オーストラリアの小学校を訪問。そこで日本語を学ぶ子どもたちを見た時、とても不思議な気持ちになりました。日本語は、英語と比べれば話者が極めて少ない言語です。にも関わらず、すでに英語を話せるオーストラリアの子どもたちが、日本語に親しみ、学んでくれている。言葉を通じて、遠く離れた日本とオーストラリアがつながっていることを実感し、海外で日本語を教えるという仕事に興味を抱くようになりました。
卒業後、一度は就職するも、
諦めきれずオーストラリアへ。
日本語教師という夢を持った私は、帰国後TJFLに続いてATJ(現LAP)プログラムに挑戦することを決意。ATJとは同女の卒業生を対象にした国際交流プログラムで、日本語教師のアシスタントとしてオーストラリアに派遣される、という内容でした。しかし私の卒業年は、運悪く受け入れ先がないという状況に。ひとまず卒業後すぐの派遣を諦め、国内で就職することを決めました。しかし働きながらも渦巻いていたのは「何か違う」という感覚。やはり夢を追いかけたいと思うようになり、入社したばかりの会社を退職した私は、卒業の翌年に再度ATJに挑戦。無事にオーストラリアへ派遣されることとなりました。
ぶつかった言語の壁も、
子どもたちのために乗り越えた。
意気揚々とATJをスタートさせた私でしたが、ここで初めて「言語の壁」にぶつかります。実は、在学中に参加したTJFLでは日本人指導者がいたため、英語で苦労することがほとんどありませんでした。しかしATJで派遣された学校は、大規模で、即戦力を求めていました。もともと英語が得意でない上に、初日から生徒と一対一での指導の時間が多く、日本語の説明はおろか、日常会話すら思い通りにいかない状況に陥ったのです。この状況に深く悩む日が続きましたが、ATJに挑戦するという選択をした意味を今一度自分に問い、自らを鼓舞。自身の英語力を磨くとともに、周囲の先生とも良い関係を築けるよう積極的にコミュニケーションを取ったことで、生徒をきちんとサポートできる環境を自ら切り開いていくことができました。
長い道のりの支えになった、
「がんばれば、できますよ」という言葉。
ATJ終了後はワーホリビザや学生ビザを取得し、夜間の語学学校に通いながら、日中は現地の学校で日本語を教えるというハードな生活を続けました。くじけそうな時いつも心に浮かんだのは、ATJで指導した学生の言葉。彼は難しい課題にぶつかっても「がんばれば、できますよ」と自分に言い聞かせて、ひたむきに日本語学習を続けていました。がんばればできる。その言葉を原動力に研鑽を続け、2019年には大学院に入学して、オーストラリアの教員資格を取るための過程を修了。自分には無理だと思っていた海外の大学院を卒業できたのは、常に身近にいる「日本語をがんばる生徒たち」の存在が励みになっていたからだと思っています。
試験で点を取る方法ではなく、
言語というツールを手渡していく。
現在はオーストラリアの公立中高一貫校で、幅広い学年の生徒に日本語を教えています。常に大切にしているのは、日本語を単なる「科目」としてではなく、コミュニケーションツールとして扱うこと。学校組織にいる限り、試験で点を取るための指導を0にすることはできません。しかし点数を追い求める勉強が原因で、生徒が日本語を嫌いになることだけは避けたいと思っています。「こんにちは」という言葉を知っているだけで、新しい世界と触れ合うことができる。人生の選択肢が増え、生徒一人ひとりの世界の解像度が少し上がる。学校を卒業してからもずっと残るであろう、この「言語によって世界とつながる感覚」を伝えることこそが、日本語教師としての私の使命だと思っています。