「自由を護った人」

2015/01/15

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

本井康博先生からは、しばしば八重に関して貴重な情報を教えていただいています。近刊の『襄のライフは私のライフ』でも、村上元三著「自由を護った人─放送劇台本─」が昭和22年の『高等国語二下』に掲載されていることを教わりました。そこで主に教科書を扱う福島の古本屋に問い合わせてみたところ、幸いなことにすぐに複数の在庫有りという返事がありました。「自由を護った人」が掲載されていることを条件に、在庫しているものを全部送ってもらったところ、どの本にもちゃんと掲載されていました。古い教科書ということで、1冊500円の非常に安い買い物でした。

内容に関しては、本井先生が本の中の「群馬県安中と八重」で詳しく述べられています。そもそも元になっているのは、八重が1921年8月27日に広津一家とともに安中を訪れた際、催された歓迎会で八重が襄のことを話したものです。その要旨というか口述筆記されたものが、「上毛教界月報」(1921年9月15日)に掲載されたことで、資料として活用できたわけです。もちろん「自由を護った人」とは新島襄のことです。

ただし放送劇台本ということで、虚構を交えて面白おかしくドラマチックに仕立てられています。そもそも新島襄・八重夫妻の外に、柴英次郎という会津出身の新聞記者とその妻・柴きぬ子が登場していますが、この2人は創作された人物です。もちろん会津出身の「柴」といえば、柴太一郎・四郎・五郎兄弟がすぐに想起されます。中でも柴四郎は「東海散士」というペンネームで八重の和歌が掲載されている『佳人之奇遇』を書いた人ですから、モデルとしてはもってこいですね。

さて冒頭の状況説明には、

明治二十四年秋、群馬県安中教会における八重子未亡人の追憶談の中に、情景として、明治二十年夏の北海道函館埠頭および明治二十二年春の京都烏丸の新島家、二景を挿入する。

とあります。

これを見てあれ変だと思いました。八重は襄の1周忌には安中を訪れていないはずだからです。明治20年夏の北海道旅行は事実ですが、これを安中で語ったのは大正10年、つまり襄没後31周年の時でした。ですからここに30年以上の誤差が生じていることになります。

ところで柴英次郎との出会いは、柴が八重に山本覚馬のご令妹ですかと尋ねたところから始まりまっています。八重がそうですと答えると、柴は「では、私は幼少の時、奥様と一つ釜の飯を食った人間であります。」と、自身の体験を語ります。鶴ヶ城に籠城した者同士という関係に設定されているわけです。さらに、「私は六歳でしたが、会津娘子軍の花形、山本八重子様の名とお姿、記憶しております。あのときの奥様は、髪を短く切られ、城内の男子に伍して、大砲を打っておられたお姿、幼な心の印象に強く残っています。」と、八重の勇姿が印象的だったことを話します。「山本八重子」は「川崎八重」が適切でしょう。モデルの柴四郎は、当時16歳で白虎隊の一員でしたから、ここでも10年のズレが認められます。

この話の中で、同志社にとって無視できない最大の事実誤認は、末尾付近に、

新島が生前、あれほど努力をしておりました同志社大学の開校は、ことし三月、その実現を見るにいたったのでございます。

とあるところです。「ことし」とは明治24年でしょうから、その年、同志社政法学校こそ開校されていますが、大学になったのはそれから20年以上後のことでした。「同志社大学設立之旨意」を参考にしたために、こんなに早い開校になっているようです。

これが実際ラジオで放送されたのかどうか定がではありませんが、少なくとも数年間教科書に掲載されたことで、多くの人に読まれたことは間違いありません。同志社のことが教科書に掲載されたことはありがたいのですが、ここまで創作が入るとちょっとやっかいですね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。