『近代女子教育の成立と女紅場』を読んで

2014/08/20

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

新島八重の伝記を書いているうちに、八重が女紅場の教師になったという事実が目に付きました。そこで女紅場についてろくに検証もせず、安易に伝記資料として活用したことが悔やまれてなりません。その後、坂本清泉・智恵子著『近代女子教育の成立と女紅場』(あゆみ出版)という本があることを知りました。読んでみると、第一章に「新英学校及女紅場」が書かれていたのです。しかもそこに書かれていることは、私の安易な女紅場の知識とはかなり違っていました。

第一に「新英学校」について、私は先に男子の「英学校」が設立され、遅れて女子の「新英学校」が設立されたとばかり思っていました。ところが本書には、

新英学校及女紅場は、開設当初男生徒も就学させたが、一八七四(明治七)年六月、男生徒を英学校に移し、校名も英女学校及女紅場とし、もっぱら女子の教育機関となった。                              

(32頁)

 

と記されていたのです。当初、新英学校には男子生徒も在籍していたというのです。どうやら「新英学校及女紅場」というのは、「及」が示すように一つの統一された学校ではなく、二つの異なる学校が並存するものだったようです。また女紅場は主に裁縫を教える学校と思っていたのですが、内実は桑畑まであって、養蚕にも従事していたようです。要するに「衣服材料を生産する一切の工程をふくめた仕事」を教授する学校だったのです。この方が八重にとっては実力を発揮しやすかったかもしれません。

二つ目は英語教師イーバンス夫妻のことです。女紅場開校時に英語の教師として招聘されたイーバンス夫妻ですから、その後もずっと女紅場で教鞭をとっていたと思い込んでいました。ところが本書には、

一八七三(明治六)年三月、契約期間満了とともに解雇される。彼らに対する評価はかんばしいものではない。いくつかの報告は、不謹慎傲慢などの評価を下している。

(38頁)

とあって、なんと一年後には解雇されていたというのです。となると、明治8年に新島襄が女紅場見学に訪れた際、英語の教師はイーバンスではなかったことになります(当時はウェットン夫妻が在職していました)。そうなるとイーバンス婦人から八重のウェディングドレスを調達することも不可能になります(「八重の桜」はやはり虚構だったのです)。

三つ目は茶道に関することです。従来は明治5年4月の開校時から、女紅場には茶道の科目が設けられ、裏千家の猶鹿子(ゆかこ)が教えていたとされていました。そのため八重と猶鹿子は同僚だったと思われていました。ところが本書によると、

一八七八(明治一一)年からは、抹茶および食礼、一八七九(明治一二)年からは、絃歌、香道、挿花の授業が行なわれるようになる。          

 (37頁)

 

とあり、茶道は遅れて明治11年に科目として採用されたとあります(私の手元にある「女学校女紅場規則」(明治13年12月25日)には「抹茶」の科目は掲載されていません)。もしそうなら、既に八重が解雇された後ですから、八重と猶鹿子は女紅場で同僚として顔を合わせたことなどなかったことになります。八重が明治27年から茶道を習い始めることを考えると、この方がすっきりします。

最後に槇村正直が新島襄に八重との結婚を勧めた際、

山本覚馬氏の妹で、今女紅場に奉職している女は、度々私のところへ来るが、その都度、学校の事について、いろいろむつかしい問題を出して、私を困らせている。

(『新島八重回想録』67頁)

 

と発言していますが、ここにある「いろいろむつかしい問題」というのがはっきりしませんでした。私は金銭的なことだろうと予測をつけていたのですが、本書にそれを裏付けるようなことが書かれていました。「女紅場等基金出納伺」という資料によると、必要な教材費は学校で調達することになっており、その金は生徒の作った製品を販売して当てるというのです。ただし開校当時ですから販売できるまでには至っておらず、当然赤字続きだったわけです。その赤字補填を槇村に頼んでいたのではないでしょうか。

以上のことはあくまで『近代女子教育の成立と女紅場』に依拠しての私の解釈です。従来の説と大きく齟齬している点は、今後さらに資料をつき合わせてきちんと検討していかなければなりません。

 

※所属・役職は掲載時のものです。