フランスへ派遣された看護婦─もう一人の「八重」─

2014/06/10

吉海 直人 (日本語日本文学科 教授)

2014年5月7日(水)の午後10時10分から、NHKの歴史秘話ヒストリアで「パリナースたちの戦場~看護婦が見た世界大戦の真実~」が放映されました。御覧になったみなさんは、第一次世界大戦時における日赤看護婦の活躍に感動されたかと思います。そんな中、私は別の視点からひそかな期待を抱いて、食い入るように画面を見つめていました。

実は同年の3月に行われた広報課の部課別研修で、京都看病婦学校の卒業生の活躍を取り上げたのですが、その1例としてフランスに派遣された看護婦の中に京都看病婦学校の卒業生がいたということを話題にしたばかりだったのです。それでひょっとしたら、彼女のことが番組でも取り上げられるかなと期待した次第です。しかしながら今回は、その時の手記を残していた竹田ハツメさんに焦点が当てられていましたね。

フランスに派遣された看護婦のことは佐伯理一郎著『京都看病婦学校五十年史』の「はしがき」に、

欧州大戦には唯一名而已(のみ)出したるに、それが同行せし赤十字社の看護婦達は皆一人残らず戦後任期満ちたる時に帰朝を許されしも、彼女ばかりは是非に残し置きくれよと仏国政府よりの切なる願を聞きても、人をして聊(いささ)か世のつねの看護婦と異なる処あるかと思はしむるものなきに非ず。何が異なって居るか?我等も同じ大和民族である。我等もかはらぬ皇室中心主義者である。然らば異なる点は僅(わず)かのものでなくてはならぬ。

(2頁)

 

と記されていることから興味を抱きました。ここではたった一人の卒業生を、同行した日赤の看護婦と比較していますが、その違い(すばらしさ)は目に見えぬものというか、技術ではなく心のありようのようです。佐伯は聖書の言葉である「受くるよりも与ふるは幸福なり」(使徒行伝二十章三十五節)をあげ、これが看護の心だと主張しています。

彼女のことは同じく『京都看病婦学校五十年史』の大正4年の報告の中に、同志社病院の院長だったベリー氏の書状(大正4年8月13日着)として、

扨(さて)、木下八重子日本赤十字社の選に當り、佛国へ派遣相成候御通知被下、実に有難く且つ嬉敷存じ候。御校卒業生として欧州戦乱に名誉ある働をなされつつある事は、當人は素(もと)より御校の上にも小生迄も誇といたすところに候。

(71頁)

 

と紹介されています。ここに「木下八重子」という実名があがっていました。これによってフランスへ派遣された京都看病婦学校の卒業生が、木下八重(明治29年卒業生)であることが明らかになりました。なんと新島八重・井深八重に続く3人目の「八重」の登場ということになります。

今回の看護師の派遣が日赤の事業だったことで、派遣されたのは当然日赤の看護婦と思い込んでいたのですが、どうやら日赤以外の看護婦もそこに含まれていたことがわかりました。木下八重はその1人だったのです。彼女のフランスでの活躍が日本で大いに評価されたからでしょう、『京都看病婦学校五十年史』には、

母校の名誉を挙げたる木下八重、竹内修子、不破雄子、東達子(皆天上の人)

(1頁)

 

云々と、不破ゆうを抜いて卒業生のトップにその名が記されています。こうなると彼女の具体的なフランスでの活躍、さらにその後どんな看護婦としての人生を送ったのか知りたくなりますね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。