「いしがねも」歌のからくり

2014/04/07

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

1890年(明治23年)正月5日、襄は大磯で病床にありながらも書き初めをし、渾身の和歌を詠んでいます。

いしがねも透れかしとてひと筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地

襄はこの歌をすぐに京都の八重に郵送し、歌人である池袋清風に添削してもらうよう依頼しました。この経緯は清風の「新島先生の和歌」(「国民の友」108・明治24年2月)に次のように記されています。

昨年一月九日、予同志社図書館に在り。偶(たまたま)新島夫人来て曰く、襄より手紙来り、貴位に歌を直して戴き度(たく)云々、予に示せり。即ち見るに初めに、

廿三年の春を迎へ我がこころざす所を

とありて歌一首を書き、其の次に左の文あり。

右は歌道を少しもこころがけぬものの吐きし歌なれば、何とか歌になり候様池袋清風大人に御頼み被下度候

一月五日

八重さま

池袋様には御直し被下候はば早々御戻し被下度候

右即座に斧正(ふせい)して渡す。左の如し。

岩がねも透れと放つますら雄の心の矢さき神のまにまに (30頁)

「九日」とあるのは「七日」の誤りかもしれません。清風がその場で添削した歌は、ただちに八重によって襄のもとに返送されました。それに対する襄の感想は、八重宛の1月10日付けの書簡の追伸に次のように記されています。

池袋様より御正し被下候分は逐而(おって)気分のむきたる時に半切に大著す可く候間、若し池袋様に御逢ひ被成候はば、右之趣も御話宜しく厚く御礼申上、荒々しき歌をも大分優美なる風調に相成申、呉々も難有奉存候、私の歌はあらごなしの出来ぬあばれ馬の如し、此は少しく関東武士の如き風なりと申して可ならん。

 (『新島襄全集4』333頁)

 

結局襄は、添削される前の形が気に入っていたようで、その本文で3枚大書して八重に送っています。同じく10日付けの襄の書簡には、

十四日に彼之三四人御招き之義は大出来と存じ大に喜び申候。彼之人々を驚かさん為に新年之和歌を大文字に認め、其々に札を付けさし上候間、お前様へさし上候分は決して他に御譲りなく、往々は表具なしをき被下度候。別に一枚は内々横田に御渡し被下、又一枚はかの人々が所望ならば鬮(くじ)になし、当りし者に御渡し被下度候。もし横田氏に当らば何とか申分を立、他之三人之内に御譲り之方よろしかるべし。

(『新島襄全集4』332頁)

 

とあって、14日に襄の誕生日を祝う会が自邸で催されています。これは八重を寂しがらせないために、襄が画策したものでした。そのことは襄が横田安止に宛てた12月30日の手紙に、「私の留守にして淋しき妻之心をば慰め被下度候」(306頁)とあることによって察せられます。

この八重宛の手紙によって、3枚の内1枚は八重の分、1枚は横田の分、もう1枚は鬮(くじ)引き用と最初から予定されていたことがわかりました。襄は横田を贔屓(ひいき)していますね。果たしてその顛末は、鬮を引き当てて喜んだ古賀快象が次のように回想しています。

或正月に浜田君、波多野君、横田君等と私四人雑煮客に招かれたる時、食後奥様は一幅の書をお見せなされて「之は襄の述懐ですが、唯の一枚だから鬮引にして差上げます」と申されました。「鬮なら私です。負けっこなしです」と御出しになったコヨリをひくと案の定私がひきあてました。浜田曰く、「古賀が又吹きあてたな」と、此時私は実に愉快でした。飛び立つ程でした。寄宿舎にて来り観る者皆羨望相でした、「いはかねも透ふれ」云々のものです。            

(『追悼集Ⅵ』396頁)

 

八重は襄の意を汲んでか、横田安止に最初から渡す分があったというカラクリを最後まで誰にも明かさず、「唯の一枚だから鬮引」と告げています。今までこの一件は襄の伝記でのみ紹介されてきましたが、実は八重も共犯者だったのです。

 

※所属・役職は掲載時のものです。