明治33年の八重の書簡

2014/03/17

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

明治33年は新島襄没後10周年にあたります(八重は54歳)。その年の1月23日、襄の命日にあたる日に、群馬の安中教会では「新島先生十周年紀念会」が盛大に行われました。その会からお誘いがあった八重ですが、出席はしていないようです。そのかわりに八重から届いた書簡が大久保牧師によって読みあげられました。幸い「上毛教界月報」16号(明治33年2月19日)に、八重の書簡が全文掲載されているので、それを見てみましょう。

新島未亡人より大久保氏への書翰

拝啓 厳寒之候に御座候処、神音之下に御皆々様方御機嫌能く珍重に奉存じ候。降て小妹も無事に渡光(とこう)致居候間、乍他事御休神(心)被成下度奉願上候。扨此度は御地に於て亡夫の紀念会御催し被下候由、御皆様方之御厚志誠に難有御礼奉申上候。実に年月之相立候は矢の如く十年之紀念会と相成申候。十年前之昨今之事を思ひつゝけ感こもごもに御座候。乍憚様御皆々様へ愛兄より宜敷御礼仰せ被下度、奉願上候。うたとも相成不申候得共、こし折れを御笑草に御覧に入申候。

  • あづさ弓十年のはるのけふもまたかへらぬ人をしたひぬるかな
  • うぐひすの初音をつぐるこのごろは昔しのはるをしのばるるかな

此歌は二周年の折りによみしが今も同じ思ひ

大磯の岩にくだけるなみの音のまくらにひびく夜半ぞ悲しき

述懐

打よするうき世のなみはあらくともこころの岩はうごかざりけり

 

どうぞ此こし折にて小妹の心中御察し被下度種々申上度候得共、昨今は種々考居筆もはこび兼申候間、後便に譲り此度の御礼を愛兄迄申上候間、どうぞ御皆々様に宜敷御伝へ被下度奉願上候。右は御礼迄 早々 可祝

結構難しい文面ですね。末尾の「可祝」は「かしく(こ)」のことです。「大久保氏」とは、かつて八重と激しくやりあっていた熊本出身の「大久保真次郎」のことです。当時、大久保は高崎教会の牧師であり、「上毛教界月報」の発行人も務めていました。その大久保を「愛兄」と呼び、対して自分は「小妹」と称しています。面白いですね。

ところでここに八重の和歌が4首も記されていることは注目に値します。歌の前後に「こし折」とあるのは、八重の謙遜でしょうか。ただしここにある4首すべてが10周年の折に詠まれたものではないようです。最初の「あづさ弓」歌は「十年のはる」とあることから、10周年の歌で間違いなさそうです。続く「うぐひすの」歌も、「昔(し)のはるをしのばるる」とあるので、同様に考えられます。

その後に「此歌は二周年の折りによみし」とあります。ところが「大磯の」歌は、八重の歌を集めた「丹鶴抄」では、襄が亡くなった年の春に詠んだとされています。もしそうなら、八重の記憶違いということになります。また4首目の「打よする」歌には、あらためて「述懐」という題が施されているので、いつ読まれた歌なのか決め手がありません。

いずれにしても「上毛教界月報」に八重の歌が4首も掲載されている点、貴重な資料であることに間違いはありません。なお八重の書簡の後に、音羽子の和歌も2首掲載されていました。

新島先生十年の紀念会に  音羽子

神に身をささげまつりて消えにける御霊は世々の生命なるらし
御めぐみをしのびいづれば今さらにさきだつものはなみだなりけり

「音羽子」とは、大久保真次郎と結婚した「徳富音羽」(蘇峰の姉)のことです。当時の女性達は、この程度の和歌だったら難なく詠むことができたのでしょうね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。