八重における広津家の重要性

2013/08/06

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

八重にとって、広津家は唯一の親族でした。山本家・新島家の存続とは別に、八重は甘糟初子を自身の養女にしていたからです。その新島初子が広津友信と結婚して広津姓を名乗ることになっても、つまり養子縁組が解消されても、八重との親子関係は生涯続いていました。その証拠に、八重の臨終は広津家が看取っています。葬儀(社葬)に際しても、広津家(旭)が親族代表となっていますし、八重の遺産も相続しています。八重と広津家の親密な関係は公然の事実だったのです。

ところが八重が同志社と距離を置いていたこと、また広津友信も同志社校長を辞して外に出たことで、次第に広津家の存在が同志社から忘れ去られていきました。それに関して、本井康博先生の興味深いコメントを紹介しておきます。八重の遺産の中には、襄宛ての書簡約800通が含まれていました。後に森中章光氏(新島襄研究の第一人者)が買い取り交渉にあたるわけですが、本井氏は「広津家は、「新島家とは、縁もゆかりもない赤の他人」だ、と森中が思い込んでいた節があります」・「初の旧姓が甘糟であり、八重の養女であったことは、あの森中でさえ承知していない事実のようでした」(『八重さん、お乗りになりますか』253頁)と分析されています。

これが同志社もしくは新島襄研究者の共通認識だったとしたら、八重の後半生における広津家の重要性はほとんど理解されていなかったことになります。かつて私は、川崎尚之助の存在は八重研究におけるブラック・ホールだと発言しましたが(新島研究103号)、それに加えて広津家の存在も同様にブラック・ホールだったことになりそうです。

ところで八重が甘糟初子を養女にしたのは、明治33年(1900年)4月のことでした。その翌年5月に、初子は襄の愛弟子・広津友信と結婚しています(結婚に至る経緯は不明です)。八重と友信も親しかったようで、奈良の老舗旅館対山楼の明治33年10月27日の宿帳には、

京都市上京区寺町通丸太町上ル十三番戸  新島八重 五十五年
同居   同志社校長                広津友信

と記帳されています(二人で奈良へ行った目的はわかりません)。「同居」とある点に注目して下さい。

それから八重が亡くなる昭和7年(1932年)6月まで、広津家とは32年間もの親密な交流が続いていたことになります。ただし友信は結婚した年の9月に同志社を辞め、岡山の第六高等学校(現岡山大学)に赴任していますから、従来は養子縁組が解消されたこともあり、疎遠になったと思われていたのかもしれません。

しかし初子は、翌明治35年に長男を出産しています。八重にとっては義理の孫にあたります。その孫の名付け親は八重でした。八重は初孫を「襄次」と名付け、大きくなったら襄の後継者にしようと思っていたようです。その孫に会うために、八重は何度も岡山へ遠征したはずです。そのことは明治42年に山陽高等女学校の講演を含め、2度も岡山へ行っている事実からも裏付けられます。

大正9年(1920年)に友信が岡山から山形の高等学校(現山形大学)に移ると、その翌年に八重は山形まで旅行しています。まるで広津家の後を追いかけているようです。あるいは一家で八重の喜寿のお祝いをしたのかもしれません。孫の襄次は期待通りに育っていました。ところが大正13年、その襄次が23歳の若さで急死してしまいました。八重はその悲しみを『追悼集Ⅲ』に書き残しています。不運は続くもので、弟の正まで同年に亡くなっています(享年19)。

広津一家にとっても、二人の息子の死は大きな痛手でした。そのためでしょうか、一家は山形から東京へ転地しています。友信の友人である留岡幸助の斡旋で、西巣鴨の家庭学校に住み込みで働くことになりました。以後、ここは八重の東京での定宿になっています。昭和3年9月の勢津子妃御成婚の際も、広津家に長逗留しています。10月5日に日本女子大学で講演した折は、広津夫妻も一緒でした。

それだけではありません。最近見つかった風間久彦宛の八重の書簡によって、昭和4年にも八重が2度上京していることがわかりました。しかも手紙には「孫のはか参り」とあり、八重が亡くなった襄次・正の墓参りをしたことが読み取れます。また徳富蘇峰宛の昭和5年5月8日書簡を見ると、やはり広津家に滞在していたことがわかります。会津訪問の帰りに立ち寄っていたのです。

以上のように、広津家の移動に八重は連動していたのです。今後さまざまな資料から、八重と広津家の密接な関係は一層明らかになるに違いありません。八重の人生において広津家の存在は要注意なのです。

 

※所属・役職は掲載時のものです。