<新出>八重の風間久彦宛書簡

2013/07/02

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
 

会津史学会の雑誌『歴史春秋』77号(平成25年4月)に、八重の風間久彦氏宛書簡が大量に紹介されています。この風間久彦という名前に見覚えはありますか。実は平石弁蔵著『会津戊辰戦争』の増補版の中に、「著者の知友風間久彦氏の言によれば」(483頁)云々と出ているのですが、これまで注目されることはありませんでした。

久彦は、会津出身者でした。旧制会津中学校を卒業した後、京都帝国大学教員養成数学科に入学した秀才です。その縁で京都会津会の学生幹事を、医学部在学中の天野謙吉と2人で務めています。昭和3年9月28日、秩父宮殿下と松平勢津子妃の御成婚が行われた際、八重はその祝賀のために単身上京します。その折3等切符(赤色)で行こうとしたのを、無理に2等切符(青色)で行かせたのが天野と久彦だったようです。

その久彦が八重と平石の仲介役となり、八重が西巣鴨にある家庭学校内の広津家に滞在していることを知らせました。平石は10月4日に広津家を訪ね、八重に面会して籠城の折の聞き取りを行うことができました。そのことは10月5日に八重が久彦に出したハガキに、「昨日平石様に御出被下ました」と記されていることと一致します。その年の11月17日、黒谷西雲院で会津会が行われ、慰霊碑の前で集合写真が撮影されましたが、久彦も後の方に写っています。

なお風間家には「万歳々々万々歳 八十四歳 八重子」の書も伝わっています。これと同じ書が葵高等学校にも所蔵されていました。これは昭和3年9月28日に会津高等女学校で開催された「歴史的書画展覧会」に出品するために揮毫されたものですが、どうやら久彦の目の前で2枚書かれたらしいのです。そのうちの1枚を久彦が頂いたという訳です。

翌昭和4年、久彦氏は宇和島の高等女学校の数学教師として赴任します。しかし手紙のやりとりは、その後も続いています。4月19日の書簡には、八重の義理の孫広津旭が宝塚の植物園に就職することが報告されていました。12月16日の書簡には、久彦がミカン狩りをしたことについて、「みかん山に御出は実に実にうら山敷よだれたらたらに御座候」という返事をしたためています。

また昭和5年2月3日の書簡には、久彦が病気(盲腸)と聞いて驚き、

さみしくも一人やまいに伏柴のもゆるこころをおもひこそやる
幾そたびとはんとすれどとへもせぬ身のおこたりをくゆとこそしれ

の2首をしたためています。八重が個人宛に和歌を詠じるのは珍しいことでしょう。そのついでに、亡夫襄の40年祭の折に詠じた歌も、

わかれしはただつかの間とおもひしにはやくもたちし四十年せの今日
あづさゆみ春たち来れば大磯の岩打つなみの音ぞなつかし

と記されています。この「あづさゆみ」の歌は上毛教界月報にも掲載されていますが、それには「あづさら青」と意味不明の翻刻になっていたのです。この書簡によって、ようやく正しい本文が判明したわけです。

昭和5年12月4日のハガキには、亡夫襄の「いしがねも」歌を石版刷で複製した軸を贈ったことが書かれています。昭和6年7月20日の書簡には、「伊よがいよいよ御好になりましたか」と駄洒落を交えた文面になっています。そして昭和7年1月18日のハガキには、米寿を歌った「あしたづの」歌の短冊を贈ったことが記されていました。

以上のように久彦宛の手紙には、親しいがゆえに八重の食欲やユーモアが滲み出ており、非常に貴重な資料と言えそうです。従来は同志社関係者に目が向けられていましが、会津出身の京大生にも守備範囲を広げた方が良さそうです。改めて考えてみると、京大総長に会津出身の山川健次郎(第6代)・新城新蔵(第8代)・小西重直(第9代)と3人もなっているのですから、会津と京都のパイプは京大を通しても繋がっていたことがわかります。

 

※所属・役職は掲載時のものです。