「心和得天真」をめぐって

2012/12/26

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

本井康博先生の著書『ハンサムに生きる』からは、教えられることが少なくありません。その一つに「心和得天真」があります。それは「新島襄のことば(5)」として、新島襄と八重の書が並べて掲載されているところです。なんでもないコラムに見えるかもしれませんが、実は非常に面白い問題を孕んでいることがわかりました。

まず襄が書いた書の方は、同志社の遺品庫に収蔵されています。一方の八重の書は、福島県立博物館が所蔵していますが、かつては五十嵐竹雄氏の所蔵でした。そのことは昭和 21年7月 21日から 23日までのわずか3日間ですが、会津若松市公会堂で開催された「会津人三人遺墨展覧会」の目録によって確認できます。ここに言う「会津人三人」とは、山川浩・広沢安任・新島八重子のことです。その八重の出品目録に、

 

  •   心和得天真                         出品者五十嵐竹雄
  •   心の和(なご)きものその人は地を嗣(つ)がむ   出品者五十嵐竹雄

 

と出ているのです。

八重の書には「新島八重子 七十七歳」と年齢が記されているので、八重が数え年 77歳(喜寿)の時にしたためたものであることがわかります。それは1921年(大正10年)のことでした。その年、八重は久々に会津若松を訪れています。その際、求めに応じて相当な数の書を揮毫したようです。現在確かめられるものだけでも、「心和得天真」以外に、

 

  •     戊辰長月二十あまり三日さしのぼる月のいとさやかなるを見て 喜寿 八重子
  • ・明日の夜は何国の誰かながむらむなれし御城に残す月かげ (白虎隊記念館)
  • ・日々是好日 新島八重 七十七歳 (会津若松教会)
  • ・勇婦竹子女史 七十七 新島八重子 (岩澤氏)

 

の三点があげられます。また「会津会会報一九」(大正10年12月)所収の「文苑」の中に、

 

  •     古里  新島八重子七十七
  • ・東山弓張月はてらせどもむかしの城はいまくさの原

 

と出ており、これも会津若松を訪問した折に詠じた歌のようです(もちろん以前に詠んだ歌を揮毫しただけかもしれませんが)。

話を「心和得天真」に戻しましょう。これは一般的に「心和すれば天真を得る」と読まれていますが、「得」の終止形は「う」なので、古典的には「心和すれば天真を得(う)」が正解です。またこれまで出典に関して曖昧にされており、いかにも聖書の文言のように思われていました。ところがこれは間違いなく有名な漢詩の一節なのです。李白の「清漳(しょう)の明府姪(おい)の聿(いつ)に贈る」という題の漢詩の一節に、「心和得天真、風俗猶太古」とそっくりそのまま出ているからです。襄の書いた言葉だからと言って、必ずしも聖書とは限らないのです。

それはさておき、かつて襄が書いた「心和得天真」を、晩年になって八重は何故揮毫したのでしょうか。それは八重が亡くなった襄の遺志を継いでいるからではないでしょうか。特に晩年の八重は、襄の<語り部>として活躍していました。この書以外にも、八重は「美徳以為飾」や「志在千里」など、かつて襄が書いた文言を晩年にしたためています。そうすることで、八重は襄との一体化を図っているのかもしれません。

ところでこの文言は、特に同志社女子大学にとって、決して知らないでは済まされない重要なものでした。現在、今出川学舎で地下に生協の食堂がある建物、何と称していますか。もうおわかりですね。今から40年程前の1971年(昭和46年)に家政学部の建物が新築された時、この文言に因んで「心和館」と命名されました。その時は新島襄の書だけが念頭にあったと思います。ところが八重も同じ文言を書いていたことがわかったのですから、これからは襄と八重に縁のある「心和館」ということにしましょう。

NHKの大河ドラマがきっかけとなって、現在この二つの書は福島県立博物館の常設展に陳列されています。書ではありますが、時代を超えて二人が仲良く並べられているのです。同志社につながる人にとっては、とてもほほえましい光景ですから、是非御覧下さい。

 


※所属・役職は掲載時のものです。