ブックタイトル同志社看護 第3巻

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概要

同志社看護 第3巻

同志社初期における医療・看護教育の実現に向かって努力したことです。デントンは持ち前の資金調達力を発揮して,募金活動に邁進します。たまたま一八九一年に来日したモリス夫妻(フィラデルフィア在住の親日家で,熱心なクエイカー教徒の資産家です)からも賛同が得られ,アメリカに帰国したら募金運動をすることを約束してもらえました。おりよくアメリカの有志ふたりから,合わせて三千円の寄付が寄せられました。しかし,当時,同志社は財政的な窮地に陥っていましたので,それを救うためにデントンはその寄付を同志社に差し出ついさざるをえませんでした。こうして医学部の夢は潰えてしまいます(同前,四八~四九頁)。けれども,彼女の夢は思わぬ形で再燃します。一九〇四年,京都見物に来たアメリカ人一家,ヴォークレーン(A.K.Vauclain)の息子が,京都で腸チフスに罹りました。その時,佐伯の手当てで回復したことが,ひとつの契機となりました。両親は佐伯を息子の命の恩人とみなし,同志社の女学生二名を医師に,もう二名を看護婦にするためアメリカに留学させる奨学金を寄付したい,と申し出ました。人選に当たったデントンは,一九〇五年に卒業生(藤田まき)をフィラデルフィアに送り,看護学を学ばせます。翌年には,同じく卒業生ふたり(相沢みさほ,中川もと)を医学研修のために同地の大学に送ります。後者のふたりは女医となって帰国すると,デントンは京都市内(河原町御池下ル)に借家して住まわせました。そして以前からの伝道拠点(博愛社)に新たに診療所を設け,医療活動に当たらせました。しかしながらこの試みは,経営不振やスタッフの転出などのため,一年ほどで閉鎖されてしまいました(同前,三八八~三八九頁)。ちなみにヴォークレーン夫人はフィラデルフィアの人で,一九〇六年に同志社女学校へピアノ購入のための寄付もしております(『同志社年表(未定稿)』五九頁,同志社社史史料編集所,一九七九年)。「受くるよりも與ふるは福なり」新島の死後,女学校でも医学教育を実施したいというデントンの構想は,同志社病院と看護学校の廃止と相前後して破綻いたしました。これら両方の試みと悲運に共通して関与したのが,佐伯理一郎という街医者でした。彼は同志社が手を引いた同志社病院と看護学校を託され,戦後まで看護学校や産婆学校として継続つぶさせます。が,それも今や潰れてしまいました。注目すべきことに,佐伯は同志社の医療機関や事業の単なる継承者ではなくて,新島の志をも引き継ごうと努力した人です。彼は同時にデントンの「同志」でもあり,ふたりで幼稚園(現同志社幼稚園)を始めたりもしました。あたさいわいそうした佐伯の志を端的に示すのが,自らモットーとした「受くるよりも與ふるは福なり」という聖句です。今の聖書の翻訳で言えば,「受けるよりも与えるほうが幸いである」です。篤実なクリスチャンですから,「聖書」の科目を設置して看護学生に受講させたり,自宅の敷地内に教会(現清和キリスト教会。京都ガーデンパレス裏)を創って看護学校の学生(ほとんど寄宿生です)に礼拝出席させたりしました。だから彼女らは卒業する頃にはほぼ全員がクリスチャンになります。はまぐりもん皆さんが今出川キャンパスに行くチャンスがあったら,烏丸通りを京都御苑の蛤門の所まで南下してください。門の向かいにKBS京都がありますが,そこが同志社病院や京都看病婦学校の跡地です。その裏手(室町通り)にマンションが建っていますが,その一角(佐伯家の跡地です)に佐伯の米寿記念碑が密やかに立っています。前面には彼がモットーとした聖句,さきほど紹介した「受くるよりも與ふるは福なり」が彫られています。現在,看病婦学校を偲べる記念碑は,これだけです。そこで私はこの石碑を同志社に寄贈してもらえるように佐伯家と交渉したいと前から考えています。機は熟していると思いますので,いずれ「朗報」をお知らせできる日が来ると思います。そうなれば,看護学部の新入生は,若王子山の新島先生のお墓と共に,この記念碑をスタートラインにしてカレッジ・ライフを歩み始めてくださいね。「愛心を以て」そして,結論です。要するに,新島襄はもとより,佐伯にしてもデントンにしても,病院,看護学校,さんみそしてキリスト教,これら三者は一体(いわば三位一体)だと確信していました。どれが欠けてもいけ45