ブックタイトル同志社看護 第3巻

ページ
50/56

このページは 同志社看護 第3巻 の電子ブックに掲載されている50ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

同志社看護 第3巻

心育「愛心」について補足しますと,新島は看護学校のみならず,同志社教育の全体で「愛心を以て」世に奉仕する人物を養成したかったのです。これが同志社をキリスト教主義で立てたそもそもの動機です。もっこれあるとき学生から「キリスト教って何ですか」と尋ねられた新島は,「真神之道,愛以て之を貫く」と答えています(『現代語で読む新島襄』一九八頁)。キリスト教の神髄は愛にある,というのです。彼は宗教(愛)をベースにした精神教育を「心育」と呼んでおります。十九世紀のあの時代,「心育」を強調した教育者が,何人いたでしょうか。今では,「心の教育」という言葉で,どこの学校(公立学校!)でも強調される時代になりました。偏差値優先の「頭の教育」がもたらした弊害を無視できなくなったからです。じこちゅう新島は,大学を含めて学校教育が「頭の教育」に偏重すると,私利私欲の強い人間(自己中人間)が生まれやすい,と嘆いています(1四四)。彼は「人の偉大さは,学識だけでなく,私心のなさに現れる。多くを学んだ者は,学んでいない者よりも,しばしば自己中心的になりがちである」と警告しています(7三一一,『現代語で読む新島襄』一七〇頁)。ドイツ医学が,技術や理論に走りがちな傾向にあることを新島が懸念していたのを思い出してください。それを防ぐには,知育に加えて徳育が不可欠である,だから宗教教育をベースにした知徳並行教ゆえん育を同志社は目指す,と新島が高らかに宣言する所以です。病院で言えば,「博愛」や「慈愛」に立脚する必要があります。同志社病院は単なる病院ではなく,「ミッション・ホスピタル」なんです。伝道以外のフィールドで言えば,「愛心」や「隣人愛」がもっとも必要,というか社会的にもっとも有効に働く分野は,社会福祉と医療・看護の世界です。だから,大学レベルの社会福祉コースを日本で初めて設けたのは,(新島の死後ですが)学部レベルでも大学院レベルでも,同志社大学なんです。看護学校の場合で言えば,京都看病婦学校は西日本で一番,全国でも二番目に出来た学校というわけです。他よりも早く,愛心教育がこういう形で実を結ぶのですね。デントンと医療・看護女子大ですから,デントン(M.F.Denton)をオミットするわけにはまいりません。いわずと知れた同志社女学校の名物女性宣教師ですが,意外にも医学や医療,看護の面でも功労者です。実は彼女は来日直後(一八八八年)から,リチャーズの勧めで京都看病婦学校に寄宿し始めます。一八九一年からは同校で食物調理法(病人用の料理)と英語を教えます(F・B・クラップ『ミス・デントン』四八頁,三八六頁,同志社女子大学・同志社同窓会,二〇〇七年)。この間,卒業生の土倉政子(同志社女学校一八八九年六月卒)が一年間,デントンの助手を務めています(拙著『新島襄の師友たち』二九六頁)。デントンは,その時の経験がものを言ったのか,それともリチャーズや医師の佐伯理一郎の感化を受けたためか,医学や看護教育にも強い関心を示すようになりました。その結果でしょうね,同志社病院じゅんぞうの院長や副院長を務めた医師の佐伯理一郎や川本恂蔵に,「同志社女学校卒業生中より是非ぜひ,配偶者を撰定せよ」と迫り,ついには教え子の土倉姉妹(前者には小糸,後者には大糸。ふたりは政子の妹です)との結婚を成立させたのが,デントンでした(『ミス・デントン』九七~九八頁)。彼ら二組の結婚式が同時に(一八九三年十一月二十三日)同じ場所(奈良県吉野郡川上村の土倉家)で挙行された時,デントンが媒酌人として遠く吉野まで足を運んだことは,もちろんです。デントンと日赤とのつながりも密接です。彼女は日露戦争開始の前年(一九〇三年),日赤終身会員となったばかりか,翌年には篤志看護婦人会京都支部に入会します。戦時中は,出征兵士や凱旋兵の歓送迎や,傷病兵の慰問活動などに積極的に取り組んだほか,市民にも看護法を教えたといいます。その活動が評価され,一九〇五年には日赤から特別会員(名誉会員)として表彰されてもいます(同前,三八七~三八八頁)。同じく篤志看護婦として活躍した新島八重も顔負けするような活躍ですね。どぐら女性医学校の夢を抱いたデントンさらに注目すべきは,デントンが同志社女学校に医学部を設立するという壮大な将来構想を抱き,そ44