ブックタイトル同志社看護 第3巻
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同志社看護 第3巻
「介抱人」と看護婦の違いが不明確ですが,すでにナイチンゲール看護学校(一八六〇年創立)が出来ていますから,福沢は病院で看護婦たちが働くのを見聞したはずです。しかし,新島とちがって,「介抱人」の養成(看護学校)を自ら手掛けることはありませんでした。ましてや,病院や看護学校が「慈善心」に由来して始められたことには触れていません。あくまでも病人主体新島の場合,京都看病婦学校には「慈善心」に基づいた三つの設立目的があるとされています。この・・・・・・・・・・・(一),「此校の目的は,第一には病人の苦痛を救ふにあり」(新島は傍点を赤で振っています)。(二),「熟練の看病人を養成する」こと。(三),「病人の心を慰むる事」。列挙された三項目から,大事なことが浮かび上がってきます。普通なら,設立目的の第一に来るべきは,優秀なナースを養成することのはずです。ですが,新島の場合,それは二番目に置かれています。「第一に」挙げられているのは,病人のためです。三番目の目的もそうです。三つの目的のうち,二つが病人志向なんです。患者本位です。この点はさすが新島だなと思います。さらに新島らしいのは,以上の目的や自己の主張を補足説明する中に,大事な指摘を散りばめていることです。たとえば,「熟練の看病人」には二種類ある。機械的の熟練と精神的の熟練で,違いは動機にある。前者では,働く動機が金もうけや名誉欲,あるいは義務。それに対して,精神的に熟練した看護婦は,全く病人その人の心を思いやって,つまりは「真実の愛心」,愛の心をもって病人のために尽くす。あくまでも患者本位です。したがって,「看病婦の熟練シタルモノハ,医者ノ薬法ヨリモ大切ナル」。「看病人一ツデ人ヲ生カシ,又ハ殺ス事モ出来マスル」。医師と比べても,看護の重要性は劣らない,と力説しています。さらに,重病人を看護するには男子よりも女性の方が甚だ適当である,とも指摘しています。男性である新島自身が体験上,言っているのですから,本当でしょうね。「熟練の看病人」新島は,自分が見聞した「熟練の看病人」として,ある時の演説でリチャーズを例に挙げます。これはこれまでほとんど注目されたことがありませんから,おそらく今日が「本邦初公開」のはずです。こもりひろの当時,同志社の男子校に市原盛宏先生という先生がいました。「熊本バンド」のひとりで,非常に優秀な方です。この先生の女児が目の病気で同志社病院に入院しました。入院直後の二十四時間は,二時間毎に目を洗浄しないと一晩で失明するという急病人でした。ところが,日本人ナースでその手当てができる人はいませんでした。それで校長とも言うべきリチャーズ自身が看護いたしました。彼女は一晩中眠ることなく,手当てをしたのです。この処置は,何らかの事情のため,ベリー院長の診断や指示なしで,つまり彼女独自の判断でした行為のようです。彼女の機転のおかげで,児童は失明せずにすみました。新島はこの処方に非常に感激して,これこそ熟練したナースだと激賞しています。リチャーズの臨機応変の手際の良さは,すぐに市内に広がり,京都看病婦学校の名声は一挙に上がったといいます(『新島襄の師友たち』一四一~一四二頁)。さらに同じ集会のために新島が書いた別の原稿があります。「生〔自分〕は衛生の事に付いては,甚し白ロウト」と断りながらも,同志社がなぜ看護学校を必要とするかを説いています。「貧困,又,長病者は,又,苦痛に罹り,非常に介保の看護を要する輩の心緒如何を思いやり,此輩に代り諸君の御賛成を乞ひ,此輩の苦痛,困難を救ふに甚適切なる看病婦を養成すべき学校を創設せん事を要する也」(1一一八)。新島の目線は,明らかにここでも病人に向いています。しかも,患者の中でも病気が一番重い人,長期にわたって苦しんでいる人,もっとも困っている人の「心緒」を思いやることが大切だというのです。彼らの苦痛や苦しみを軽くしたいのが,新島の悲願です。はなはだ42