ブックタイトル同志社看護 第3巻
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同志社看護 第3巻
同志社初期における医療・看護教育出来ました。留学生主体の国際女子寮です。このリチャーズは,看護師とは別人の男性です。同志社ハワイ布哇寮(Friend Peace House)を寄付してくれたハワイの資産家です。リチャーズの名前を取られましたから,今度はリンダ・リチャーズからリンダをとって,「リンダ館」はどうかと思っています。以上のベリーやリンダのほかにも,アメリカから派遣された医療宣教師(医師)がいます。ベリーの次にバックレー(S.C.Buckley)という女医さんが,夫(こちらは医師ではなく,同志社教授)とともに来ます。当時,女医さんなんて日本にそうそういませんよ。ちょうどバックレーが京都に赴任した前後ぎんこ(一八八五年)に,日本人で最初の女医さんが生まれました。荻野吟子です。医師の国家試験に最初にだんじょうゆみちょう合格した女性で,のちにあの「熊本バンド」のひとり,海老名弾正(今の弓町本郷教会の牧師でした)しかたゆきよしから洗礼を受け,クリスチャンになります。そして同志社神学校の卒業生,志方之善(彼は新島から洗礼を受けていました)と再婚します。志方は後に牧師になります。だから,信仰や結婚から言えば,言うならば同志社系の女医さんですね。ナースとしては,リチャーズに続いてフレーザー(H.E.Fraser)やスミス(I.V.Smith)が来ます。資格をちゃんと持ったアメリカ人看護師が三人もいる看護学校など,他にありません。先進校の慈恵ですら,せいぜいひとり,多くてふたりですから。新島の看護教育観次に新島が看護学校を必要とした理由を見てみます。まずは受験生向けのサイト(Q&A)で,本学がPRしている文章です。Q1同志社女子大学看護学部設立の背景を教えてください。A1一八八六年(明治十九年),同志社創立者新島襄は,京都看病婦学校・同志社病院を開き,看護教育を始めました。これは日本で二番目に古い養成機関です。新島は看病婦学校設立の目的として,「病人の苦痛を救うこと」,「看病人を養成すること」,そして「病人の心を慰めること」の三点を挙げ,人に寄り添った看護の重要性を挙げています。もっまた「愛心を以て」看護を実践することと述べています。これは現代にも通じる看護の姿です。看護学部看護学科は新島の遺志を受け継ぎ六番目の学部として誕生しました。A1は新島がある集会で「看護学校設立の目的」について演説した時の原稿に基づいています。ここではもう少し詳しく,なるべく新島が語った通りの文(原文)で紹介してみます(以下,1一一〇~一一四,〔〕は本井による補注)。まず,欧米では看護学校はすでに開校しているものの,日本ではまだ「一種特別新発明の学校」でおのれごとある。その働きは,聖書にある「己を愛する如く,人を愛すべし」が基礎になっている。「病院,貧院,てんきょう幼院,癲狂院〔これは精神病院です〕,又は看病婦学校等」の設立は,慈善心や宗教心から起きるもの。まずは以上が,新島による最初の設立動機です。それ以前の看護人は基本的に男性でしたので,看護人に女性を起用するという発想はありませんでした。欧米ではすでにナースは,「ナイティンゲールおんなますらお女丈夫」によって「発明」されていましたが,日本では男性の看護人に代わって,資格を備えた女性の看護人を新しく養成する学校は,斬新でした。校名の中の「看病婦」という単語は,当時の人たちにはとても新鮮に響いたと思われます。要するに未開拓な分野ですから,京都看病婦学校の場合,募集人員が三十名,しかも授業料は無料とあっても,開校時の入学生はわずか五名。翌年の二期生も七名まれでした。その後も十名を超えることは,稀でした(廃校までの十九年間,卒業生の総数は百三十一名です)。ちなみに新島より早く,一八六〇年から一八六二年の間に欧米に行き,実際に病院を視察した人がいます。福沢諭吉です。彼は帰国後,その見聞記を一八六六年に『西洋事情』という書物で紹介しました。病院には医師のほかに男女の「介抱人」が必要とされ,病人五十人につき十人を抱えるのが「定則」であると指摘しています(『福沢諭吉全集』一,三〇六頁,岩波書店,一九五八年)。41