ブックタイトル同志社看護 第3巻
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同志社看護 第3巻
同志社初期における医療・看護教育復刻版,一九九六年)。いかにも新島らしい気配りですね。ところで,ユウが鈴木キクを赤十字社と回想しているのは,不可解です。出身校は慈恵でしょうね。慈恵というと,この分野ではライバルとは言えないまでも,同志社と並ぶ双璧の存在でした。慈恵は日本で最初の看護学校。二番目が同志社ですから。いずれも日赤の看護学校よりも早いんです。つまり「東の慈恵・西の同志社」というわけです。東西の名門看護学校を出た看護婦が,同志社創業者の臨終にそれぞれ立ち合ったというのは,実に奇遇ですね。これ以外にも両校間には,さまざまな人的な交流がありますが,その究明は今後の課題です。帝大医学部に対抗以上,患者体験や看護婦を含めて,新島と医療との個人的な関連を紹介してきました。表面には出て来ることはないのですが,新島の医学部構想の背景に潜む、意外に重要な要素かなという気がします。そうした要素とは別に,新島が医学校や病院,看護学校を欲しがった表立った要因としては,アンチ帝国大学(東大)の姿勢をも挙げることができます。こういうことです。当時,医学部や医科大学は東大以外にはありません。まして私立大学では,です。そうした状況下に,あえて私学で医学部を創りたいと言うのですから,そこには相当の願いと覚悟がなければなりません。新島は日本で最高権威の医師,ベルツ先生から治療を受けながら,ベルツ先生を擁する帝大医学部(だけ)ではよろしくないと思っているんです。決定的な理由は,帝大の医学部はドイツ医学が中心だからです。日本の医学界は,当初から最近までドイツ偏重でした。一例を挙げれば,診療記録はかつてはドイツ語で書くことが通例なので,「カルテ」(Karte)というドイツ語が使われていました。カード(card)とかレコード(medical record)とは言いませんでした。さすがに戦後は英語や日本語で記入されるようになりました。それくらいドイツ一辺倒だったんです。外国人医師・教授といった「お雇い外国人」もドイツ人中心なうえ,日本人医師もドイツ留学が望ましい時代です。こうした人たちは,日本人,ドイツ人を問わずキリスト教を嫌うんです。ひとつには,彼らは宗教や倫理にまったく無関心で,関心があるのは純粋に科学や技術のみ。その結果,ドイツ人教授など,概してアンチキリスト教です。これが新島にとってはたまらなかったんです(6二一六)。新島は牧師になってアメリカから帰ってきますから,病院や看護学校を立てるにしても,その基盤はキリスト教主義以外には考えられません。新島には,ほとんどの医者が悲しいほど腐敗している日本の現状を浄化し,清めるにはキリスト教が必要だ,との認識がありました(6二一五)。ではそうした現状を改めるにはどうすればいいのか,というと,アングロサクソン系の医学,つまりは欧米流の医学の導入です。特にアメリカ流の医学です。かの国のキリスト教,すなわちプロテスタントに基づく病院や医学,看護学校が欲しいと言うのです。こうして,一八八〇年代後半から,新島はキリスト教主義大学構想を抱き始め,その中に医学部(医学校や病院,看護学校を含む)の設立を目論見ます。結論を先に申しますと,新島の生前には同志社大学は実現しませんでした。だから医学部も陽の目を見ていません。ですが,その前身というか準備として病院と看護学校は生まれました。同志社病院と京都看病婦学校の設立功労者そのあたりのことを同志社女子大学は受験生サイトで,次のように誇らしく宣言しています。「一八八六年,同志社創立者新島襄は京都看病婦学校,同志社病院を開き,看護教育を始めました。これは日本で二番目に古い養成機関です」。詳しく言えば,病院と看護学校の開業式が挙行されたのは,今からちょうど百三十年前の八月十一日のことです。ただし,仮開業は前年でした。本開校の開業式には,五百人ほどの人が参加しましたが,建物内部を公開したところ,三千人を超える見学者が押し寄せたといいます。市民の期待と関心の高さが窺えますね(『同志社百年史』通史編一,二九八頁)。39