ブックタイトル同志社看護 第3巻

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概要

同志社看護 第3巻

志社時報』一四二,同志社,二〇一六年一〇月)。不破ユウユウの結婚は卒業直後の同年九月のことで,「先生の勧めに従って,不破の家に参りました」(『追悼集』二,三〇〇頁)。新島がいわば,媒酌人です。夫は例の「熊本バンド」のひとりで,不破唯次郎っていいます。同志社神学校出身の現職牧師でした。つまり不破夫妻とも新島の教え子なんです。彼女は,牧師夫人として教会を支える裏方に徹します。不破は当時,前橋教会牧師でしたから,ユウは前橋に嫁ぎますが,その直後に新島が大学設立募金運動のためにドクターストップを押し切って群馬に参ります。じょう案の定,前橋で倒れます。ユウは現地で「約四十日間〔実は二週間くらい〕,づマっマと〔新島〕先生の看護をして居りました」とか(同前),「朝から夜の十時か十一時頃迄,毎日御世話申しました」と回想しています(同前六,三四八頁)。新島としては,ユウが居てくれた前橋で倒れたのが,不幸中の幸いでした。この間,新島は病床でユウに対して,アメリカで見た看護術の消息など伝授したりしています。「主さよう婦たる者は,看護術位は修めておかねばならぬものである。外国では殆んど左様です。看護術の心得ばんたんからかみある者は,万端やさしく,例へば唐紙の開閉まで鄭重だ」といった風に,です(同前六,三五〇頁)。新島は上州の寒さを避けるために,その後,東京を経由して暖かい湘南の地(大磯の百足屋旅館)ただむかでやに転地して療養いたします。結局,ここが彼の終焉の地になるのですが,ユウは前橋から大磯にも何度か出向いて,新島の最期を看取ります。これが生前の恩師への最後の恩返し,奉仕となりました。新島の死後,不破牧師は前橋から京都に転出して,平安教会の牧師に就任します。この間に京大が創立され,医学部や京大病院が誕生します。ところが京大は,指導者となるべきその手の卒業生を誰も出しておりません。その点,同志社の方が古いですから,同志社の看護学校を出たユウが京大病院初代看護婦長として迎えられました。「東の慈恵・西の同志社」もうひとり,大磯で新島の臨終を看取った看護婦がいます。これまであまり知られていなかった鈴木キク(菊)です。この人は有志共立東京病院看護婦教習所(今の慈恵看護専門学校)の出身です。久べいせん保田米遷という絵師が描いた新島の臨終図には,もちろん看護婦が出ていますが,これまで不破ユウと思われていた人物が,ひょっとしたら鈴木である可能性が出てきました。新島と鈴木には,直接の関係はありません。ではなぜ,彼女が新島を看取ることになったのか。まだ謎が多いのですが,一説には東京での新島の主治医ともいうべき樫村清徳院長(山龍堂病院)に随伴して大磯に入った,と言われています(拙著『新島襄の師友たち』二〇九頁)。この前年の秋,新島は山龍堂病院に五日間入院(一八八八年九月二十五日~二十九日)して,樫村から治療を受けております。入院費用は「一日上等一円」でした(5三七五)。この樫村が東京から大磯に呼ばれたのは,新島が死去する一週間前(一月十七日)のことでした(8五七三)。その際,同志社の理事であった湯浅治郎(群馬出身で,当時は東京在住)の指示や助言があった,と私には思われます。なぜか。鈴木キクは湯浅の孫だからです。湯浅は,新島危篤の知らせを受けて,一月二十一日,看護婦を連れて東京から一番列車で大磯に駆けつけます。この時,彼が同伴した看護婦が,慈恵医院で働いていた鈴木(後に看護婦長)ではなかったでしょうか(『新島襄の師友たち』二〇九頁)。この日,樫村医師も午前九時に新島の診断と手当てをしています。ユウの証言によれば,臨終を看取った看護婦は,「樫村博士の御指図で来られた赤十字社の鈴木看護婦と私とふたり」であったといいます(『追悼集』六,三五三頁)。いよいよ最期を覚悟した新島は,駆けつけた一人ひとりと訣別の握手を交わします。この時,看護婦ひょうのうのひとりが氷嚢を洗うために部屋を出たのを誰も気づかなかったのですが,新島は彼女を呼びにやらせ,「おおいに御世話になりました」と礼を言い,握手しております(『新嶋先生就眠始末』一四六頁,38