ブックタイトル同志社看護 第3巻
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同志社看護 第3巻
同志社初期における医療・看護教育来ました。なぜ廃校されたのか。それは,信徒であったジェーンズの感化でキリスト教に傾斜する生徒が多く生まれてしまったからです。設立者の意図しない結果になったので,学校は廃校になりました。彼らを受け入れた同志社はどうか,と申しますと,出来て半年ぐらいの,いつ潰れてもおかしくない,未熟極まりない塾でした。そうした哀れな私塾に熊本洋学校でジェーンズ先生から英語で指導を受けた秀才たち,しかもキリスト教に共鳴する生徒が,三十人以上も来てくれたのです。同志社からすれば,「干天の慈雨」,いや「棚からぼた餅」です。彼らはヨチヨキ歩きの幼い同志社を,熊本洋学校のような整然とした青年の学校にするのに,ずいぶん大きな力を発揮してくれました。彼らの入学から三年後に同志社は初めて卒業生を十五名出します。全員,神学生。しかも「熊本バンド」(熊本洋学校の卒業生)です。その中には地元京都の人間は,誰ひとりおりません。卒業と同時に,十五名の中から日本人教授が五人(同志社女学校に二人,男子校に三人)も出ます。それまでは日本人教員は新島校長ただひとりで,あとは全員,宣教師たちでした。さらに新島校長が亡くなったあとの人事ですが,ここでも「熊本バンド」は圧倒的な力を発揮します。彼らの中から次々と五人も校長が出ます。なので,同志社にとっては「熊本バンド」サマサマです。再建が待たれるジェーンズ邸残念なことにジェーンズ邸は,今春(二〇一六年)四月十四日の熊本地震で全壊いたしました。私はこの間,熊本に呼ばれてジェーンズ先生の話をしたんですが,地元の方は建物の復興に関して,ほんとに熱心でした。日赤も同志社も当然,募金に協力しています。時間的な経過を申し上げますと,洋学校が廃校され,ジェーンズがクビになったのが,一八七六年です。翌年,西南戦争が勃発しました。空き家となった立派な教師館に,大本営(司令部)が置かれました。戦争が終わると,いろいろな目的に利用されますが,日赤誕生の建物ですから,もちろん日赤熊本支部の活動拠点にもなりました。木造の二階建て洋館ですが,地震で全壊後の復興(再建)にはナン億というお金が必要と言われています。復元には数年はかかるでしょうね。むしろ現在の資材を使って新築したほうが,二億円くらいで済むと聞いております。皆さんが看護師になられたらぜひ一度,行ってみてください。水前寺公園の脇にあります。日赤(新島)だけでなく,「熊本バンド」にもゆかりの深いスポットですから。新島を看た看護婦(2)新島は佐野常民(博愛社創設者)や橋本綱常(博愛社病院院長)と交流があったことからも窺えるように,赤十字運動や看護婦養成には早くから関心を寄せていました。繰り返しますと,自身,「病気の問屋」と自認していましたので,現実に何人かの看護婦の世話になっていたことも要因となったはずです。ここで新島を看た看護婦について付言しておきます。すでに紹介した井上石や岩上エン子のほかにも名前が分かっているのが,新島が神奈川県大磯で臨終を迎えた時の看護婦です。本人は「心臓病で死ぬだろう」と覚悟していましたが,現実の死因は急性腹膜炎,つまりは盲腸でしょうね。この当時,盲腸になれば治療の仕様がなかったようで,痛みをモルヒネでただ抑えるだけでした。日本での最初の盲腸手術は,新島が死んでから十年ほどしてから,と言われています。そうした新島の最期を看取った看護婦が,不破ユウ(勇,雄とも書きます)です。京都看病婦学校の第二期生です。彼女は,学生時代から新島の指導を受けており,同校卒業式(第二回)で新島の式辞を聴いた七人の卒業生のひとりです。新島が亡くなる半年前(一八八九年六月二十七日)のことで,同志社女学校卒業式(卒業生は五人)と同時開催でした。これが最後となった新島の式辞は,旧約聖にが書(「出エジプト記」十五章)に基づき,「苦き水を甘くせよ」でした(『追悼集』二,三二六頁,同志社社史資料室,一九八八年)。これはそれより二日前に男子校(同志社英学校)の卒業式で披露したものと同一内容で,男子卒業生を痛く感激させました(拙稿「クリスマス・ツリーものがたり」七九頁,『同37