ブックタイトル同志社看護 第3巻

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概要

同志社看護 第3巻

ました。負傷者を救護するための組織です。その意味では,西南戦争は日本のクリミア戦争です。おぎゅうゆずるです。熊本での西南戦争中,傷病兵の救護の必要性を政府に訴えた人がいます。佐野常民と大給恒二人はすでにヨーロッパで活躍していた赤十字社のことを聞き及んでいましたから,そのような救護組織を日本でも作らねば,と思っておりました。現実に新政府軍だけでなく,薩摩軍にもおびただしい死者や負傷兵が出ていることを憂慮した二人は,熊本に赴き,征討総督(司令官)として現地で新政府ありすがわみやたるひとしんのう軍を指揮していた有栖川宮熾仁親王に直接,願い出ました。敵味方を差別せず,人道的な救護活動を行ないたい,という訴えです。幸いにも認められました。これが,日赤の始まりです。博愛社が日赤と名前を変えたのは一八八七年のことですが,新島は旅日記(一八八八年~一八八九年)の余白を備忘録にしてアドレス帳にしております。それには「赤十字社事務官」として笠原某とともに「社長佐野常民」の名前が含まれています(5三八八)。日赤が設立されてから,かなり早い段階で面談した可能性が残ります。看護学校や看護教育に関して,情報収集したり指導を仰いだりしたのでしょうか。ふるしろ興味深いのは,博愛社の設立許可が下りた場所,いや建物です。熊本城(古城地区)にあった熊本洋学校外国人教師館の二階です。当時,新政府軍は戦争の大本営(司令部)をここに置き,征討総督自らがここに住み込んで,指揮をしていました。要するにこの建物こそ,日赤発祥の地なんです。その後,あちこち移転したあと,今の水前寺公園脇に落ち着きます。なので,ここは「日赤記念館」として看護の世界では聖地扱いされてきました。博愛会の誕生博愛会は,戦争によって生まれる傷病兵の救護のために専門の看護婦を養成したいという意図から,成立九年後の一八八六年に至って東京に病院を設けます。今の日赤病院(日本赤十字社医療センター)の前身,博愛会病院です。ついで看護学校(救護看護婦養成所。現日本赤十字看護大学)が設置されるのが,一八九〇年のことです。ただし,決して日本初の試みではありません。後で述べますが,日赤でさえも看護学校に関しては,慈恵や同志社に後れをとります。ちなみに,さきほど触れたように新島が晩年(一八八八年四月)に東京で診てもらった権威ある名医は橋本綱常で,時の陸軍軍医総監です。彼が博愛社病院の初代院長をも兼務していたのは,奇遇です。なぜなら,実はこの病院の設立を提唱したのが橋本だからです。前年の一八八五年にジュネーブで開かれた赤十字の国際会議にオブザーバーとして参加した彼は,女性救護員(看護婦)を養成する必要性を痛感して帰ってきました。その当時,日本では救護人(看護人)は男性に限られていましたので,留学中に同じことを見聞した新島と並んで,橋本は看護婦教育の面ではパイオニアです。ところで,熊本の日赤記念館は,もうひとつ別の顔をもっています。「熊本バンド記念館」です。つすまりふたつの記念館は同居しており,二階が赤十字記念館,一階が熊本バンド記念館と棲み分けています。同志社は奇しくも両方と関係を持っています。が,密度で言えば断然,後者です。理由はこうです。ジェーンズ邸と「熊本バンド」ふたつの顔を併せ持つ建物は,元々は熊本洋学校外国人教師館でした。今では熊本市内の観光名所で,観光マップでは,「ジェーンズ邸」で通っています。熊本洋学校は,明治維新直後の一八七一年に熊本県(旧肥後藩)が熊本医学校と並立させて設立した学校で,教員としてジェーンズ(L.L.Janes)という元軍人をわざわざアメリカから招聘いたしました。高給を用意しただけでなく,立派な宿舎(教員住宅)も新調して,厚遇しました。そのためジェーンズ邸は,熊本初の洋風住宅です。この一階に展示されている資料の一部は,同志社が提供したものです。なぜかと言うと,ジェーンズは洋学校の教え子のうち,キリスト教に傾斜した生徒,卒業生たち(彼らは同時に洋学校の秀才グループでもありました)を同志社に送ってくれたからです。ジェーンズが熊本から同志社に送り込んでくれた生徒・卒業生たちは,同志社では「熊本バンド」(熊本グループ,あるいは熊本組という意味)と呼ばれました。彼らは洋学校が潰れたために京都に移って36