ブックタイトル同志社看護 第3巻

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概要

同志社看護 第3巻

同志社初期における医療・看護教育津軍)は結局,撃ち負かされ,城内には死人や傷病者,怪我人が続々と出ました。埋葬や看護は生き残った者たちの務めですが,八重はここでも大活躍をします。明治維新後,兄(山本覚馬)を頼って京都に来てからも,対外戦争が起きると,八重は黙っておれません。「戦争上がりのお転婆娘」を自称する八重は,日清戦争や日露戦争では,志願して篤志看護婦になり,広島や大阪に出掛けて,傷病兵の面倒を見ます。広島出張の場合など,日赤の看護婦だけじゃなく,皆さんの先輩にあたる京都看病婦学校の学生をも引率しています。会津戦争と違って,この時の八重は専門的な訓練を受けた看護婦として看護活動に当たっています。個人的にも姪っ子を始め近親者四人に看護婦になることを勧めてもいます。ナイチンゲールとの差だから表面的に見る限り,「日本のナイチンゲール」と目されるのも,自然な気がします。看護婦である点では,当たらないことはないのですが,けれども,純然たる赤十字精神から見ると,様子が違ってきます。ナイチンゲールがクリミア戦争でやったことは,敵味方を問わず傷付いた兵士たちの看護をすることでした。「敵味方を問わず」が大事です。ところが八重は,弟や父親が殺された会津戦争ではもちろん,日清・日露戦争のときも,ひたすら味方の看護に終始いたしました。ここでは,敵兵は憎むべき存在で,傷の手当てをすることなんぞ飛んでもありません。こうなると,ナイチンゲールの精神からは外れます。会津で「女だてらに」,いや「女サムライ」として銃を手に戦っなんじた八重にすれば,新島に出遭って信徒となってからも,「汝の敵を愛せよ」とのキリストの教えは絵に描いたモチでした。それを日頃から懸念していた新島は,ある時,彼女に向かって「武士の心」だけでなく,「真の信者の心」を持ってほしいと忠告しています(3三二九)。ナイチンゲールの精神が,キリスト教の教えから来ていることは,明らかです。もうひとりの八重,木下八重戦争中の看護活動で言えば,八重以上に国際的に活躍した皆さんの先輩がいます。もうひとりの八重です。第一次世界大戦のときに木下八重という方が,日赤から選ばれてパリに行き,傷付いた外国人兵士の世話をしています。以前,NHKテレビが「歴史秘話ヒストリア」(二〇一四年五月七日)という番組で,日赤がパリに派遣した日本人看護婦たちの働きを紹介したことがあります。番組タイトルが素敵でした。「パリナースたちの戦場―看護婦が見た世界大戦の真実―」です。残念ながら番組では木下さんのことはあまり出て来ませんでした。ですが,大変有能な方で,パリでの仕事が終わったあと,ほかの看護婦たちは皆,日本に戻されたんですが,木下八重さんだけはフランス政府からぜひ残ってくれと懇請されました。だから,その後もしばらくパリで看護活動をされた,非常に立派な先輩です。ですから,京都看病婦学校でもこれまで卒業生のトップランクに位置づけられています。木下八重と日赤との関係はよくわかりません。が,新島八重の方は看護婦の資格を実は日赤(講習)で取っています。同志社に看護学校があったにもかかわらず,です。彼女の遺品の中には,日赤から貰った証書や感謝状のほかに,日赤の「社章」や「正装用帽子」など,いろいろ残されています。このように日赤とは深く関わった新島八重なんですが,不思議なことになぜか,夫(新島襄)が創った京都看病婦学校とはそれほど深い関係がありません。日赤と同志社それにしても,日赤が日本の看護活動で果たした働きは,突出していますから,同志社にとっても無縁ではありません。むしろ,同志社とは意外な関係があります。皆さまは,日赤がどこで始まったか,ご存じですよね。そう,熊本です。日赤の前身は「博愛会」という救護団体で,一八七七年に熊本で出来ております。薩摩の西郷隆盛が,薩長中心に組織された明治新政府に反逆して起こした西南戦争の戦場で組織され35