ブックタイトル同志社看護 第3巻

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概要

同志社看護 第3巻

ほかにも新島は,夏には札幌や伊香保(群馬県)で,冬には神戸で静養したりしています。さらには湘南(茅ヶ崎)のサナトリウム(南湖院)でも一か月近く療養しています。この施設は,京都の医学生こうあん時代に同志社教会に通っていた高田畊安という医師(帝大でベルツなどから医学を習いました)が創ことごとく設した施設です。「室内ハ尽西洋風」ですから,洋風好きな新島には「実ニコンフォルテブル・ルーム」でした。食事は別にして,個室の賃料は一日六十銭でした(5三三六)。新島は海外での生活が長かったので,和食が駄目なんですね。だから洋食を出してくれるこの施設は,とても居心地がよく,ありがたい療養所でした。ちなみに,ここでは勝見正成という医師から治療を受けますが,退院する時,薬代とは別に「謝儀」として五円を出しています(5三四一~三四二)。一方,看護の面倒を見たのは,井上石という女性です。新島の日記(一八八八年五月二十五日)には,・・・教え子である「徳富〔蘇峰〕氏,看病婦井上石女ヲ携テ来ル」とあります。たまたま近所の別荘にいた・・・旧友の富田鉄之助(日銀副総裁)が「徳富君ニ計リテ看病人ヲ遣シ呉レタル」結果でした(5三三六,傍点は本井)。徳富は自分が経営する新聞社(民友社)の若手社員の人見一太郎に看護婦派遣の件を依頼したようです。そのことを新島は臨終の床で感謝して,遺言にその旨を書き残します。新島の遺言を口述筆記したのは蘇峰ですが,それには「人見一太郎君,君ニ謝ス。医師,看護婦等の周旋御芳志,ひと偏ヘニ感謝す」とあります(4四〇七,四一三)。南湖院に入った翌月三日,「東京ヨリ岩上エン子,島謹看病人〔男性のようです〕,来院する」とも日記にありますので(5三三九,三四三),看護婦は交代されたようです。井上石は一週間くらい宿直しましたから,五月一杯で勤務を終えたのでしょうか。新島八重が京都から海浜院に呼ばれたのは,その直後です。着いてすぐに彼女は襄の姿を見てショックを受けます。襄は海岸を散歩中でした。八重によると,その姿は「足には軽き草履を履き,一つの手はつえ,もう一つの手は看護婦」の肩に寄りかかり「静かに歩み来りし」といいます(3五九〇,新島八重子「逝きし夫を偲びて」三三頁,『新島研究』八,一九五六年一月)。想像していた以上の衰退振りだったのでしょうね。八重とて,夫がここまで酷くなっているとは,まさか予想してなかったようです。この時の看護婦は,井上と交代した岩上エン子でしょうね。ならば以後,八重も岩上と共に湘南で襄の看護をしたと思います。きん「日本のナイチンゲール」と新島八重八重には看護の経験がありました。だから,新島の医療志向には,夫人の影響もあるのでは,と推測することも可能です。三年前のNHK大河ドラマ,「八重の桜」を見た方は納得できますが,八重は時に看護婦のイメージで見られます。現に,修学旅行生のお土産用に本学キャンパス(ハリス理化学館)では八重ファイルを売っております。「八重さんの生涯」を四つのキャラで表現しているなかに,白衣を着た八重の看護婦姿も入っております。看護帽にはご丁寧に同志社の徽章がつけてありますが,これはヤリスギです。しかしこのイメージ,わりと強いですよね。時には,「日本のナイチンゲール」に例えられたりします。「八重の桜」で八重を演じた綾瀬はるかサンは,大河ドラマが終わった後も,会津まつりに毎年,参加してますが,今年のパレード(九月二十五日)ではなんと白衣姿の看護婦でした。さすがにキャップには同志社マークはありませんでした!八重の看護婦姿を使い過ぎると,どうなるか。同志社の場合,クレームが来たりします。同志社は新島八重をダシにして,看護学校あるいは看護学部を創るんや,と外から,時には中(スタッフ)からも言われます(拙著『新島襄の師友たち』四一八頁,思文閣出版,二〇一六年)。だから,この風評には慎重であるべきです。八重さんの影響が決定的だとはとうてい思えないからです。ぼしん確かに八重は戊辰戦争(江戸時代の最後,日本が東西に二分されて戦った国内戦争)で看護経験があります。もちろん無資格ですよ。彼女は,会津まで攻め込んで来た西軍(薩長主体)を鶴ヶ城で迎え撃った會津戦争に従軍し,自ら銃を引っ提げて銃撃戦を展開しました。八重は西軍によって京都で弟を殺され,会津でも父親を殺されています。その仕返しをするのが彼女の従軍動機です。しかし,東軍(会34