ブックタイトル同志社看護 第3巻
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同志社看護 第3巻
同志社初期における医療・看護教育海外での医療体験(2)それからヨーロッパ体験です。新島襄はアメリカ留学中に大学院を休学して一年間,ヨーロッパを回っています。今で言う文科省のお役人(それも高官です)に随行して教育視察をするためで,途中,ロンドンでは聖トマス病院を視察しております。ナイチンゲールに会えたかどうか分かりませんが,日本人としてかなり早い視察ですね。すべての用務を終えてから,新島はドイツにひとり残留します。療養のためです。有名なヴィースバーデンという温泉町です。日本で言えば,有馬温泉や熱海温泉といった所でしょうか。リューマチで寝られないぐらい身体が痛んだようですね。温泉療法を半年間やりましたが,ほとんきど効いていません。療養の効果なくアメリカに戻り,大学院(神学校)に復学し,翌年に修了してから帰国します。同志社を立ち上げてから,新島はもう一回,欧米に出向いています。目的は,保養のためです。このままでは生命が持たないという医師の勧めもあって,一年半もの間,同志社を留守にしました。ヨーロッパでひと夏,避暑をしてから,アメリカで療養する,という長期の旅になりました。この旅行中,アルプスで命を落としかかっております。山登りが好きなので,スイスからイタリアにてい抜けるサン・ゴタール峠を登った時に,心臓に異常をきたし,歩けなくなります。ほうほうの体で峠の宿屋に辿りつきます。が,車(馬車)も医者も呼べず,怪しげな素人療法を試みます。持っていたカラシを胸に塗ったりしますが,痛み・発作は止まらない。もう駄目だと観念し,携帯していたスケッチブックに遺書を英語で書きました。一枚書いてもまだ生きていましたから,二枚目にも挑戦しました。これらは今も同志社(新島遺品庫)に残っています。こんなことが書いてあります。自分が死んだら,ミラノの教会で葬式をしてくれ,とあります。だからお墓も当然,ミラノですよね。にゃくおうじそうなっていたら,現在,東山(若王子)の同志社墓地にある新島の墓の前で毎年行なっている新島襄永眠記念礼拝は,イタリアで行わなければならないところでした。命を取り留めて,アメリカに戻った時,時間を見つけて療養します。ニューヨーク州のクリフトン・スプリングスという,これまた温泉町にあるサナトリウムに三か月間,滞在(入院)します。この時は「脳病」(頭痛やノイローゼでしょうか)に悩まされていたのですが,結局,完治することなく,日本に戻ってきます。帰国直前の体調を紹介しますと,「我脳,破裂スヘキモ」と言っております。脳が破裂寸前だというのです。にもかかわらず,「千載一遇」のチャンスだからと同志社や日本の伝道のために頭と身体を酷使しています(3三六七)。これでは長生きなど,どだい無理です。み新島を看た看護婦(1)二度目の外遊から帰国して以後,大磯で亡くなるまでは,わずか四年ちょっとです。その間もあちこちで療養したり避暑や保養をしたりという生活が続きます。ほんとに半病人ですよね。東京に行った時(一八八八年四月)には,有名なベルツ先生に二度も往診してもらっています(5三〇一,三〇五)。ドイツ人医師で,世を時めく帝国大学(東大)医学部教授です。「あなたの心臓はいつ止まってもおかしくない」との診断を下されました。日本人ドクターでは,軍医のトップ(陸軍軍医総監),橋本綱常です。診断の結果は,「胃ヨロシカラズ」でした(5三〇三)。ちなみにいずれの場合も,新島は謝礼として十円を包んでいます(5三四四,3五八一)。今なら二十万を軽く超える金額でしょうね。ほかにも毎日のように来てもらっていた日本人医師,難波一がいまして,彼にも十円(薬代以外に)を払っています(3五八一)。このように何人もの医師の診断を受けるかたわら,新島は五月に入ってから東京での滞在先(粟津家)で専任の世話人を雇っています。日記には「井ノ上お石女ヲ雇ヘリ」とあります(5三〇五)。彼女が「看護婦・井上石」なのか(8四四二),家政婦なのかは,判断に迷いますが,新島自身はすぐ後に見るように看護婦と記しています。「止宿料」として「七日分(日ニ三十銭位)」(つまりは約二円か)を支払っていますから,泊まり込んでの看護と思われます(3五八一)。33