ブックタイトル同志社看護 第3巻
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同志社看護 第3巻
の時にすでにリューマチと眼病を患っていました。函館で脱出の機会を伺う間に,当地のロシア病院で治療を受けております。これが新島襄と西洋医学との最初の出会いです。不思議なことに,江戸ではこういう機会は,なかったんですね。函館での治療は,彼にカルチャーショックを与えました。ロシアの病院,すご過ぎるというのです。それに対して,わが国の医者や医術(漢方医や東洋医学です)はなっていないと嘆きます。ここは本人の言葉を交えて紹介するのが,ベストでしょう。こうです。・・「さてこの病院は,ロシアの皇帝がすべての経費をまかなっている。日本の・・・・・・・・・・医者が(十中八,九まで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・病人の貧富を見分けて,薬を差別するのと違い,物乞いのように貧しいものにも病気しだいで高価な薬を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・与える。その願いは,病気が全快し,患者がロシア人を慕うのを望むだけである〔傍点は新島による〕。右のように手厚く対応しても,一切謝礼を要求せず,全くの施しである。しかし,人々は皆,全快すればなにかしら品物を持参して,医者に感謝するという。〔一方,〕日本の政府が建てた病院は,ロシアの病院とは相反し,食事は良くなく(卑しい役人がこれによって金を得る),病人が必要とする薬も良くない(医者がこれによって金を得る)。やぶいしゃそれはさておき,薬を調合し,病気を診察する肝心の医師は,竹林より来る藪医者なので,病院の中には人がいない(掃除は行き届かず,衣類も時々しか替えない。施しをしようという考えなど,どこにもない)。これに反してロシアの病院には病人が充満し,外来の病人はおよそ五,六十人ほどである。箱館〔函館〕の人が,長年ロシアの恵みと救いを受ければ,日本の政府にそむき,心からロシア人を尊敬するようになるだろう,と大変嘆かわしく思う。ああ,ロシアの先を見越した政策を,わが日本政府はなぜ察知しないのであろうか」(編集委員会編『現代語で読む新島襄』四二頁,丸善,二〇〇〇年)。海外での医療体験(1)こうしてみると,新島は脱国して現地で欧米社会を自分の目で直接見る前に,西洋医学に対する憧れが(日本の医療への失望と共に)かなりあったのでは,と思われます。その後,実際に八年間にわたってアメリカで留学生活を送ることになりますが,その間,病気や健康に関してさまざまな経験を積みます。ひとつは,日常生活での健康への配慮です。江戸での生活がいかに不健康であったかを知らされます。江戸にいる弟(四歳下です)にお兄ちゃん風を吹かせて,手紙でアレコレ忠告します。酒,タバコは止めなさい(新島も両方やっていました。特にタバコは大好きでした。渡米後は禁酒禁煙です)。それかくるわら廓などで女遊びはしないように,とくに性病は怖いから,と。細かい注意としては,部屋の掃除を時々するように。下着も定期的に取り換える。せめて一週間かふんどし十日に一度は替えなさい。想うに,新島自身も渡米前は,褌を半月くらい履き続けていたんでしょうね。たくあん食事に関しては,沢庵は塩分が多いから,食べてはいけない。むしろ肉を食べなさいと。江戸時代には肉は食べてはいけないことになっていました。許されるのは,まあせいぜい鶏肉でしょうね。新島の場合,二十歳の頃に江戸から大阪に行く機会があり,そこで牛肉を初めて食べています。こまごま弟への注文は,さらに続きます。散歩をしなさい,風呂にもちゃんと入ること。こういう細々したことをアメリカから書き送るということは,アメリカに渡ってから新島の衛生思想なり健康情報が随分増えた証拠ですよね。新島の健康との関係でもっと大事なのは,大学時代に保健体育を履修したことです。大学とはアーモスト大学という名門大学です。彼はここで保健体育を習います。アーモスト大学は,全米で最初に正規の科目として「保健体育」を導入した大学です。まだ体育の先生なんかいない時代ですから医者を体育の先生として呼んで,講義と実技を担当させます。そのために学内に体育館をいち早く建てます。体育は必修でしたから,新島は日本人として初めて正式に体操や体育,あるいはスポーツ,運動に接します。解剖学や生理学といった講義も受けました。32