ブックタイトル同志社看護 第3巻
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同志社看護 第3巻
同志社看護Doshisha Kango Vol.3, pp.31-46, 2018-同志社女子大学看護学会講演会(2016年11月30日)-同志社初期における医療・看護教育ー新島襄の志と取り組みーDoshisha Hospital and Training School for Nurses本井康博(元同志社大学神学部教授)Yasuhiro Motoi同志社の忘れ物皆さん,こんにちは。久々の田辺キャンパスです。私が学生の頃の同志社には田辺キャンパスはなく,大学が六学部で,女子大は多分一学部だけだったと思います。それが今やふたつの大学を合わせると二十学部ですから,とんでもないビッグな学園になりました。特に二十一世紀に入ってからは,スポーツ系あるいは医療,看護といった系統の学部や大学院が五つも増えました。具体的に言いますと,女子大では二〇〇五年に薬学部,二〇一五年は皆さんの看護学部。一方の大学では,スポーツ健康科学部,生命医科学部,そして大学院の脳科学研究科。医療・理科系学部が多くなってきました。ところがです,ひとつだけ忘れ物があります。医学部です。もう二十学部もあるからええやろ,と言われかねませんが,創立者の新島襄先生の気持ちを考えると,どうしてもやっぱりあとひとつが不可欠です。増やすとしたら医学部です。実際に新島当時のほうが,医学部に近かったんです。だって病院と看護学校を創ったんですから。今からちょうど百三十年前のことです。両方とも新島が亡くなってからつぶ潰れました。医学部それじゃ,新島はどうして医学部(病院と看護学校を含めた)を目指したのか,と言いますと,そもそも欧米の大学には医学部が付き物です。ほかには,神学部(文学部)と法学部です。神・法・医の三学部揃い踏み,これが欧米のスタンダードというか,伝統的な大学の姿です。このうち,神学部と法学部は新島が亡くなってからできました。ですが医学部だけは,いまだにない。新島が医学部を欲しがった要因には,ほかにもあんがい個人的な事情や思いがあったように思われます。自己体験です。結論的に言いますと,彼は生涯にわたって半病人で,そのため若くして亡くなっています。四十六歳と十一か月の寿命でした。自分でも「諸病ノ問屋」(『新島襄全集』二,三九一頁。以下,の2三九一)とか「病魔之囚人」(4三九)とか自称し,病弱なのを自覚しております。罹病や入院の経験が多く,生涯で罹った病気は軽く二十を越えます(宮沢正典「新島襄と病気」二〇三頁,伊藤弥彦編『新島襄全集を読む』晃洋書房,二〇〇二年)。毎年夏や冬には,避暑,避寒,保養のためにあちこちに出掛けることが多かったのも頷けます(田中真人「新島襄の移動空間」二〇〇~二〇一頁,同前)。この結果,新島は自然と病人に対する思いやりが深かっただけでなく,病院や医師,あるいは看護婦や看護学校などへの想い入れや注文も人一倍強かったと思いますね。函館での医療体験新島の紹介を兼ねて,この点をもう少し述べてみます。四十七年近い生涯を病気との関連でざっと見てみます。幕末(一八四三年)に江戸で生まれ,二十一歳で「こんな封建社会,いやだ」と自由を求めて密出国を図ります。そのため欧米のどこかの国へ行きたくて,ひとまず函館へ向かいます。もうこ31