ブックタイトル同志社看護 第2巻
- ページ
- 41/62
このページは 同志社看護 第2巻 の電子ブックに掲載されている41ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 同志社看護 第2巻 の電子ブックに掲載されている41ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
同志社看護 第2巻
京都同志社病院機関誌『おとづれ』第1~3号(1893年)氏(當時の同志社病院長),川本恂蔵氏と余とが其補佐であった。定期刊行ではなかりしも隔月に出版して,三號を出せる後其年の十一月ドクトル,ベリー氏が歸米せられしを以て中止した。此雑誌の目的は主として京都看病婦學校(同志社病院内に在りし)の卒業生(廿六年六月迄に總計三十八人内産婆を兼ねたる者十八人)の通信機關であった。」と記述している(京都看病婦学校同窓会,1931,pp.507)。このことから,J.ベリーが中心となってすすめていた病院機関誌は,病院・看病婦学校活動の単なる広報誌という意味だけでなく,看病婦学校の在校生や卒業生の状況を知らせ合う交流的な役割を担うことも意図されていたと考えられる。Ⅶ.おわりに以上のように,1893(明治26)年の約半年間,3冊のみの発行ではあったが,病院・看病婦学校の発展への関係者たちの熱いおもいが込められた結晶として,この病院機関誌が発刊されたといっても過言ではない。その一方で,創立者新島襄の死後,病院・看病婦学校の発展を支えてきたアメリカン・ボードと同志社の関係が急速に変化していく中で,病院・看病婦学校の存続問題が起こりつつあり,将来に向けての不安が大きく膨らんでいった時期でもあった。J.ベリーはじめ関係者は,その不安を払拭するためにも,病院・看病婦学校の発展ぶりを社会に広くアピールしていきたいという意向も含まれていたのではないかとも推測される。しかし,この不安はだんだん現実味を帯びてきていた。責任者であったJ.ベリーの思いがけない帰国はその象徴的な出来事であった。そのために,病院機関誌は廃刊となった。この数年後,病院は閉鎖され,看病婦学校は同志社の手を離れ,佐伯が引き継いでいくのである。そのような変遷の中で,この病院機関誌は,当時の同志社における医療や看護教育活動成果の一端を知る上での貴重な史料であり,その発刊は病院機関誌として先駆的な取り組みであったと考えられる。謝辞:本論をまとめるにあたり、ご助言頂きました本井康博先生、依田和美先生に深く感謝申し上げます。なお、本論に関して著者は開示すべき利益相反はありません。文献遠藤恵美子,山根信子(1984):佐伯の学校の卒業生たち~京都看病婦学校・京都産婆学校~.125-165.東京:非売品.京都看病婦学校同窓会(1900):発刊の辞(佐伯理一郎).同志社病院・看病婦学校『おとづれ』1(1):1.京都看病婦学校同窓会(1900):京都看病婦学校畧史(佐伯理一郎).同志社病院・看病婦学校『おとづれ』.1(1):19-38.京都看病婦学校同窓会(1931):改題の辞(佐伯理一郎),『助産看護之友』4(7):507.本井康博(2011):同志社人物誌104『堀俊造』医学部を夢見たクリスチャン・ドクター.同志社時報.132:70-77.本井康博(2016):新島襄の師友たち~キリスト教界における交流~,第11章堀俊造.268-279.京都:思文閣出版.中西裕(2009):ホームズ翻訳への道~延原謙評伝~.42-61.東京:日本古書通信社.岡山寧子(2010):同志社病院・京都看病婦学校ではじめられた看護教育~リンダ・リチャーズの日本での活動から~.京都府立医大雑誌.119(2):88-98.岡山寧子,竹中京子,依田和美(2007):京都看病婦学校初期の卒業生の看護活動を紹介した文献.第27回日本看護科学学会学術集会講演集:356.岡山寧子,竹中京子,依田和美(2008):同窓会誌『おとづれ』からみた京都看病婦学校卒業生の活動~第1巻1号から第2巻10号(明治34年-44年)の概要~.日本看護歴史学会第22回学術集会講演集:50-51.手島恵(2016):看護者の基本的責務:定義・概論/基本法/倫理.62-67.東京:日本看護協会出版会.The A.B.C.F.M.Mission,Kyoto,Japan(1893):The7th Annual Report of the Doshisha Hospital andTraining School for Nurses:19-22.(同志社社史資料センター所蔵)徳川早智子(1998):同志社病院と看護婦学校(第七年次報告書).同志社談叢.18:137-143.35