ブックタイトル同志社看護 第2巻
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同志社看護 第2巻
スルニ當リ茲厳粛ナル心ヲ以テ左ノ諸件ヲ守ラン事ヲ誓約ス第一吾儂ガ看病學ニ就テ得タル諸ノ知識ハ擧ゲテ我同朋ヲ益シ病者ノ苦ヲ救フタメ用ヒ之ガ為メニ我力ト我心トヲ所盡スベシ第二吾儂ハ病者ニ對シテハ回復救護ヲ以テ主一ノ目的トスベシ第三吾儂ハ己ガ看護セル病者ノコトニ就キテ我職務ノ為ニ知リタル所ノ秘密ハ如何ナル事情アリトモ之ヲ他人ニ洩スコトナカルベシ第四吾儂ハ決シテ此貴重ナル職務ヲ汚スコトヲナサズ正直ト忠實ヲ以テ世ニ處シ力ヲ盡シテ此職業ノ榮譽を圖ルベシ京都同志社病院看病婦學校第何学年卒業生何誰」さらに,第6回の卒業式挙行の翌日夜,看病婦学校講堂にて退職職員と卒業生,新職員のための送迎親睦会開催についての記述がある。その次第は,賛美歌,祈祷および開会の辞(堀),送別の辞(在学生),答辞(卒業生や退職職員など),唱歌,歓迎・送別の辞(J.ベリー),卒業生への言葉(佐伯),答辞(新職員),唱歌,祝祷(小﨑弘道校長)である。来客は100名余りで,盛会だったとある。Ⅵ.病院機関誌発刊の意義病院機関誌第1~3号から,当時の病院・看病婦学校の状況を概観すると,病院においては経営的には苦しかったものの,患者数は年々増加し,病床増設,巡回看護開始,施療所新設などキリスト教に基づく地域医療をさらに積極的に取り組もうとする姿勢が鮮明にみてとれる。また,看病婦学校においても3人の来日宣教看護婦によって引き継がれた先進的な看護教育は,卒業生たちの動向などから当時の医療の発展に繋がっている様子がうかがえる。中でも,第6回卒業式での各先生方の餞別の言葉には,当時の看護専門職としてのあるべき姿を,具体的にしかも現代の看護倫理にも十分対応できる内容(手島,2016)を示しており,看護の本質をしっかりと踏まえた看護実践や教育の質の高さがしのばれる。また,当時アメリカでも斬新であった「看病婦の誓詞」を卒業生が朗読したというのも,この時期は日本でもかなり早いと考えられる。これら看護についての詳細な記述に加え,学校への入学方法,試験や卒業式の様子,校舎増築などを記述しており,看病婦学校開設から着実に発展し,社会的にも広く貢献していることを明確に示している。それらの記述がかなり具体的であり,詳細であることから,学生を広く募集するための広報を意識したものとも推測される。これは、当時学生数は少しずつ増加していたものの,地域医療への拡大など,看病婦養成をさらにすすめたいという積極的な姿勢を示しているものと考えられる。このように,病院機関誌では,病院・看病婦学校での診療・看護教育が開始から約7年が経過して,開設当初の目的を守りながら,大きな発展の様相を示している。佐伯は,同窓会機関誌創刊号の京都看病婦学校略史の中で,病院機関誌発刊前年の1892(明治25)年は,過去だけでなく将来においても,恐らく病院・学校の全盛時代であったと評価している。そして,病院機関誌の発刊はその発展を助けるものであると述べ,病院・看病婦学校に寄与するために機関誌発刊の必要性と重要性を示唆している(京都看病婦学校同窓会,1900,pp.28-29)。改めて,この病院機関誌発刊の意義は何であったのかを考えると,まずは,医療・看護教育活動が徐々に軌道に乗り,充実してきたことに加え,地域医療事業を推進しようとする中で,病院・看病婦学校での医療や看護教育の実績を広く社会に伝えていくことで諸活動のさらなる発展をめざす戦略の1つであったのではないかと考えられる。アメリカン・ボードへの病院・看病婦学校第7年次報告書にも,患者は病院に入院しても,その期間は短く,退院後も何らかの医療的な援助が必要であると考え,病院機関誌の発行を開始した(徳川,1998,pp.140-141)とあり,その実績を広く伝え,地域医療事業を進めようとした積極的な姿勢がうかがえる。二番目には,キリスト教の伝道活動推進が挙げられる。各号に伝道活動を具体的に紹介している上に,論説では,医療・看護,健康教育や保育など健康に関連する幅広い内容を一般の人々にもわかりやすく記述しており,人々自身が健康を自ら守ることができるような働きかけの重要性を示している。それがキリスト教精神に基づくものであることを説いており,あわせて地域医療事業を通して,キリスト教伝道をさらにすすめたいという意図を示すものと考えられる。三番目として,看病婦学校の学生や卒業生の交流の場としようとしていたことが挙げられる。後年,佐伯は同窓会機関誌の中で,「明治廿六年四月『同志社病院おとづれ』という雑誌が出版せられ其主筆がドクトル,ジョン,シー,ベリー34