ブックタイトル同志社看護 第2巻

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概要

同志社看護 第2巻

ダ・スミス(Ida V.Smith),そしてヘレン・フレーザー(Helen Eliza Fraser:以下,H.フレーザー)とアメリカの宣教看護婦により引き継がれた。しかし,その開始から約10年後,病院・看病婦学校は存続の危機に直面した。1897(明治30)年,同志社は病院と看病婦学校の管理を,当時同志社病院産科の医師であった佐伯理一郎(1862-1953:以下,佐伯)に委ねた。熊本出身の佐伯は,新島襄らの影響を受けてクリスチャンとなり,京都にて信仰に基づいた医療・看護教育に生涯を捧げた人物である。佐伯は実質的に病院・看病婦学校の運営をすすめ,併せて京都産院や佐伯病院を開院した。1906(明治39)年には,同志社病院は閉鎖され,看病婦学校は佐伯病院内に移転,同志社の手を離れた。その後約50年間,1951(昭和26)年の閉校まで,佐伯の尽力により京都看病婦学校の名前は受け継がれた。卒業生は1000人に近い。筆者は,今までに病院・看病婦学校の諸規則,京都看病婦学校50年史(1936年),リチャーズの回想記(1911年),アメリカン・ボードへの公式事業報告書の病院・看病婦学校第1~9年次報告書(4・5年次は未確認,1887~1896年)などから,開設初期の病院・看病婦学校では,創立者新島襄の意向に沿って,キリスト教を基盤とした,欧米からの直輸入的ではあるけれども先進的で幅広い診療・看護教育が実践されてきたことを確認してきた(岡山,2010)。また,同志社の手を離れ,「佐伯の学校」となった後も,その精神は引き継がれ(遠藤・山根,1984),卒業生たちの様々な活動記録などから看病婦学校の教育成果を探ってきた(岡山,2007)。中でも,同窓会機関誌には,卒業生名簿や卒業後の消息・動向などが詳細に記載されており,卒業生による幅広い分野での活躍を確認することができる。この同窓会機関誌の発行は,第1回の卒業生輩出から12年後の1900(明治33)年からである。この年に京都看病婦学校の同窓会が正式に発足,その活動の一環として同窓会誌の発行が始まったのである。同窓会機関誌は,創刊からほぼ1年ごとに42冊発行されており,最終号は1943(昭和18)年である(岡山,2008)。その同窓会機関誌創刊号に,佐伯は,「顧みれば明治二六年中『同志社病院おとづれ』生まれてより同二十八年には『同窓の音(おとづれ)』出でたりと雖も甲はベルリ氏歸國のため三四囘にして,乙は學校變遷のため僅かに一囘にして何れも其呼吸止むる不幸に・・」と述べ,同窓会機関誌はその病院機関誌を継承した形で発行したとの記述がある(京都看病婦学校同窓会,1900,pp.1)。また,病院・看病婦学校第7年次報告書(1893年)などには,病院機関誌が地域と病院を結ぶ機関誌として紹介されていたが,その詳細は明らかではなかった。このたび,The Doshisha Hospital Messenger京都同志社病院機関誌『おとづれ』(以下,病院機関誌)第1~3号が同志社女子大学史料センターに寄贈された。そこで本稿では,この病院機関誌の全容を紹介し,その記述内容から当時の病院・看病婦学校の状況や機関誌発刊の意義を探る。Ⅱ.研究方法主な史料は,病院機関誌第1~3号の3冊を用いた。今回確認できたのは,第1号が原本,第2号と3号はコピーである。いずれも,病院・看病婦学校での診療や看護教育開始から7年後の1893(明治26)年に発刊されている。佐伯が,病院機関誌は3号発刊後にベリー帰国のため中止となった(京都看病婦学校同窓会,1931,pp.507)と述べていることから,この3冊が全てと考えられる。本報告は,本史料の所蔵先の許可を得ている。また,現在の呼称「看護師」について,本報告では歴史的な存在としての「看護婦」または「看病婦」を用いた。Ⅲ.病院機関誌第1~3号の発刊病院機関誌は,第1号が1893(明治26)年3月7日,第2号同年5月27日,第3号同年7月17日と2ヶ月毎に発刊されている。病院機関誌のサイズはA5判で,第1号12頁,第2号14頁,第3号16頁の冊子である。表紙の上半分はThe Doshisha Hospital Messenger京都同志社病院『おとづれ』号数,出版の日付が西暦と和暦で,下半分は第1号では「発刊緒言」,第2・3号には「論説」が記されている。いずれも,最終頁の下半分に,目次(英文・和文),発行年月日,発行所,編集人,発行兼印刷人などがあり,発行所は私立同志社病院,編集人竹内種太郎,発行兼印刷人堀俊造,第2・3号は大阪福音社印刷と記述されている(図1)。編集人の竹内種太郎(1863~1893)は,同志社出身の伝道師で,1893(明治26)年に看病婦学校教授兼伝道師となるが,同年10月病死している。その妻である文も看病婦学校に勤務したが,夫の死後故郷の津山に戻り,長年女子教育に尽力した(中西,2009)。30