ブックタイトル同志社看護 第2巻
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同志社看護 第2巻
同志社看護Doshisha Kango Vol.2, pp.29-35, 2017-資料-The Doshisha Hospital Messenger京都同志社病院機関誌『おとづれ』―第1~3号(1893年)の記述内容―The Doshisha Hospital Messenger ?Otozure?,No.1-3(1893)岡山寧子1)Yasuko Okayama抄録本稿は,The Doshisha Hospital Messenger京都同志社病院機関誌『おとづれ』(以下,病院機関誌)第1~3号の全容から当時の同志社病院・京都看病婦学校(以下,病院・看病婦学校)の状況や機関誌発刊の意義を探ることを目的とする。主な史料は病院機関誌第1~3号の3冊で,第1号(12頁)は1893(明治26)年3月,第2号(14頁)は同年5月,第3号(16頁)は同年7月に発刊され,発行所は私立同志社病院,編集人竹内種太郎,発行兼印刷人堀俊造,第2・3号には大阪福音社印刷とあった。病院機関誌発刊には,病院・看病婦学校が創立7年目を迎え,診療・看護教育共に軌道に乗り,量的にも質的にも充実しつつある状況を関係者や地域の人々に広く伝え,これから巡回看護などの地域医療を強化し,さらにキリスト教を広めようとしている意向がうかがわれた。主な記述内容は,論説と記事で,論説では病院・看病婦学校のJ.ベリーやH.フレーザーなどによる医療・看護,健康教育や保育など健康に関連する幅広い内容を一般の人々にもわかりやすく記述していた。記事では病院・看病婦学校の状況,例えば病院の運営状況,巡回看護と施療所新設,看病婦学校入学関連や卒業生の動向,伝道,英文年報の発刊,卒業式挙行などであった。中でも,卒業式の記述では,卒業生に対して看護専門職としての自立に向けての質の高い餞別の言葉が示されていた。以上から,この病院機関誌の意義は,広く医療・看護知識を一般に普及したこと,病院・看病婦学校の実績を広く社会に伝えることがさらなる発展への戦略の1つであったこと,キリスト教伝道の活動推進の手段であったこと,そして在校生や卒業生の交流的な意味を持っていたことが考えられた。J.ベリーが帰国し,その後の病院・看病婦学校が大きく変化していく中で,この病院機関誌は当時の同志社における医療や看護教育活動最盛期の成果の一端を知る貴重な史料であり、その発刊は病院機関誌として先駆的な取り組みであったと考えられる。キーワード:同志社病院,京都看病婦学校,機関誌,伝道,J.ベリーⅠ.はじめに今から約130年前,1886(明治19)年の秋,同志社の創立者新島襄により設立された同志社病院・京都看病婦学校(以下,病院・看病婦学校)での診療および看護教育が始められた。それは,日本で2番目に早い開始であった。当初,京都御苑西側(現在のKBS京都付近)の宣教師館を仮建物として,宣教医ジョン・ベリー(John Cutting Berry,1847-1936:以下,J.ベリー)を病院長,リンダ・リチャーズ(MelindaAnn Judson Richards,1841-1930:以下,L.リチャーズ)を学校監督者に迎えた。看病婦学校が正式に京都府から設置認可を受けたのは1887(明治20)年8月,新病院や看病婦学校の開業式が同年11月に盛大に行われ,翌年には初めての卒業生4名を輩出した。L.リチャーズにより始められた看護教育は,その後,イー1)同志社女子大学看護学部Faculty of Nursing,Doshisha Women?s College of Liberal Arts29