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概要

同志社看護 第1巻

の養成と示している。また,新島は,1886(明治19)年9月の大日本私立衛生会京都支会での演説草案の中で,看病婦学校設立の目的を,第一に「病人ノ苦痛ヲ救フ・・・」,第二に「熟練ノ看病人ヲ養成スル・・・」,第三に「病人ノ心ヲ慰ムル事ガ甚大切・・・」の3つを挙げ,病人の気持ちに沿い,苦痛を和らげる看病法を学ぶこと,「・・・看病婦ノ熟練シタルモノハ,医者ノ薬法ヨリモ大切ナル事カアリマショウ,看病人一ツデ生カスモ殺スも出来マスル・・・」(新島,1983,pp.111-113)と述べ,熟練した看護力と病人の心に寄り添える看護の重要性を示した。これは現代にも通じる看護職に求められる力,「看護実践能力」の育成をめざしていたのである。さらに,新島は「・・・又病人ハ兎角神経ノ敏ナルモノナレハ,総テノ事ニ心ヲ用イネハナリマセヌ,且如病人ヲ取扱ウニハ金銭の為ニモアラス名誉ノタメニモアラス又義務ノ為ニアラス,全其ノ病人ノ心ヲ思イヤリ真実ノ愛心ヲ以テ病人ノタメニスル人ガ入用デアル・・・」(新島,1983,p.113)と述べており,看護専門職としてのあるべき姿を示した。当時,まだ近代看護が日本にほとんどなかった時代に,新島の現代にも通じる看護の考え方をどのように培っていったのだろうか。その背景を推察すると,まず,彼のキリスト教的な隣人愛は,医療の分野で必ず発揮されるという考え,また当時の日本にはあまり導入されていなかった欧米での近代医療・看護事情をすでに直接触れていたことなどが考えられる。実際1872(明治5)年,彼は岩倉使節団の通訳として渡英した際に,近代看護教育を開始したF.ナイチンゲールの看護についても見聞きしていたと思われる。それ以上に,自身の幼少期からの度重なる病人体験などから医学校・病院・看護学校設立構想が培われ,こんな医療・看護を受けたい,そのためにどんな医療人教育すればよいのかという具体的なイメージが膨らんでいたのではないだろうか。新島の闘病体験については多くの研究があるが,46才の時に虫垂炎の腹膜炎により死去するまで,彼自身が「自分は病気の問屋」(本井,2015,p.9)と述べ,彼の人生は病気と共にあったようである。中でも,27才頃リューマチ熱に罹患,以後何度も発熱に悩まされ,あわせて心臓弁膜症に伴う心不全を併発したため,彼の生活そのものが大きく制限されたようである(布施田,2014)。病気の際には,いわゆる名医から,当時の先進的な治療を受けたようであるが,この時の療養体験の中で,病人の目線から理想の看護婦像を構築したのではと考えられる。2)F.ナイチンゲールによる看護教育の導入新島の医療・看護への志を具現化するために,近代医療の先進国であったアメリカから宣教医J.C.ベリー,宣教看護婦L.リチャーズ達を病院・学校設立ブレインとして迎えた。L.リチャーズはアメリカ最初に訓練を受けた看護婦であり,近代看護を開始したF.ナイチンゲールに直接指導を受けた後,実際にボストン市立病院看護学校での教育を実践し,実績を積んだ後に来日した。そのため,京都看病婦学校は,F.ナイチンゲールの考え方や彼女自身が経験してきたボストンでの看護教育を範とした,当時としては世界的にも最新の看護実践や教育を日本に導入していたことがうかがわれた(岡山,2011)。例えば,生徒の規律に「生徒はまじめ,正直,誠実,信頼に足る,時間を守る,落ち着いて従順,清潔できちんとしている,忍耐強く明るく親切でなければならない」(京都看病婦学校規則,1887年)と示しているが,それとほぼ同様の内容がボストン市立病院看護学校規則(1878年)(M.リドル,1928)や救貧病院における看護(聖トマス病院での訓練,1867年;F.ナイチンゲール,1974)にも示されている。また,当時京都看病婦学校で学んだ学生による授業筆記ノートからも垣間見ることができる。「・・・空気ノ事,病室ハ大キク二階ノ室清潔ノ空気アル処か宜シ病人一月半位カカル病気ナル故ニ其室内ノ不用ノモノハ采皆取リ去リストーフヲ置キ寝台ハ室ノ中央ニ於キ・・・其清潔ニスル為ニハ必窓ランマヲ開キオクベシ尤モ昼夜モナリ病人ノ口ヨリ悪性ノ呼気出ス故ニ此ノ如クシテ何モ清潔ノ空気ト交換スベシ・・・」(遠藤,1976,p.46)。これは院長ベリーによる「内科・小児科看護法」講義録の一部である。「換気」を重視したF.ナイチンゲールの看護に通じる。また,京都看病婦学校卒業生の多くに,日本や海外で幅広く活躍した足跡をみることができる。それらは,L.リチャーズ達による看護教育とその実践が,当時の日本だけでなく世界的にもレベルの高い,先進的で国際感覚豊かなものであったことを示している(岡山,2011)。2