例えば、エール大学で、1828年に出した有名な本がありますが、それはもう、むしろ教材などは決まっていた方がいいのだと、教材が決まっていれば、教える方も、どこが山か分かる、そこから徹底的に教え込むのだというようなことを言っています。そういった精神が、やはり、かなり残っているわけです。それは多分、そのままではいかなくて、そのように、定型的な知識を基にするということでは、やはり知識が多様化する社会ではやっていけないのです。それで、1890年代、あるいは80年代に、ハーバードのエリオットという学者が選択科目というものを作りました。その選択科目だけにすると、全然学生が、やはり勉強しないようになりました。基本的に、このように、元々の伝統である助力や誘導などという要素をきちんと入れようと、そこから、現代アメリカの大学教育が出発しています。 120単位、日本は体育を入れて124単位ですが、アメリカは120単位です。120単位という数え方が問題なのではありません。基本的にはやはり、このような完結性を持たせ、それで一つの完結した単位を作る、それは、必ずしも学習単位ではなくて、例えばコースでもいいわけです。それを、週に2回やる、3回やるなどといったことも考えられるわけです。比較的、モジュールという形で完結させます。モジュールに何単位かを付けて、それで、全部で120単位にするという形式を取っているというところがあります。このあたりも、日本は表面だけを導入したわけですが、もう1回、考え直さなければいけないのではないかと私は思います。 そのような過程で何を作るのかということですが、大学教育とは、結局何なのでしょうか。 私は、知識を作るということも重要ですが、これはさすがに、一般的な能力も必要です。ただ同時に、自分が社会で何者であるかということの自覚も、非常に必要です。むしろ、今のように不確実性の時代では、自己認識はより必要になっていると思います。ただこれは、独自にそれぞれ機能することではなくて、互いに関係しているのです。このようなプ60 Faculty Development
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