ういうことを基本的には考える必要があるだろうと思います。大学教育はどこに中心があるのかというと、やはりそのように、何か一定の課題に向けて努力するということは、授業の中に含まれていなければいけないのではないかと思うわけです。そういう意味で、先ほど申し上げたドイツやアメリカモデルは、元々何を言っていたのかということを少し考えてみることは必要だと思います。 ドイツのモデルは学習の自由などというものですが、勝手に勉強してればいいと取っていて、特に戦後は、その部分だけ日本の外形はアメリカの体制になったのですが、中身はむしろ、ドイツ型になっています。学生は、大学など勉強しなくていいのだ、自由で考えるのが学生だというようなことが多かったわけです。元々、ドイツはベロフライハイトといいまして、学習の自由という言葉があって、ドイツの大学も、実際には、実態としてはそうだったところが多いようです。しかし、元々、学習の自由と言い始めたことは、そのような意図ではありませんでした。それも、一連とあったかもしれませんが、もっと重要なことは、学生は、何か問題に突き当たって、自分で考えることが必要だということです。 これは少し変な図ですが、右側に自己紹介、自己認識の深さ、縦に内化された知識というものを取ってみます。この真ん中の点は高校を出たくらいで、知識が少し増えて、自分もある程度偉くなったと思うところで、大学に入るわけです。 ところが、大学に入ると、周りと比べればやはり、大学で学ぶべき知識と比べれば、自分の知識が非常に狭いということが分かって、相対化して、その知識がそのような尺度では低くなっていくわけです。低くなりますと、自分というものは、大体、あまり何も知らないのではないかと、懐疑的になっていきます。一旦そこに落ち込んでから、勉強するのです。勉強すればある程度自分で、何か見通しが開けてきます。このように、一種のダイナミックな関係があります。一旦挫折するということは必要で、そこからさらに知識を得て、成長するというようなモデルは、本来考えられるべきところだったと思います。それをやはり、あまり自分で勉強しないということは、そのようなチャンスを逃すことになり58 Faculty Development
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