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The Roots 志の章 美しき伝統の余韻 Vol.1

高い志を掲げた同志社創立者 新島 襄 1843年~1890年

同志社教育の真髄、
良心を手腕に運用する人物を育てる

1843年2月12日(天保14年1月14日)、安中藩の江戸上屋敷で新島襄は生まれた。女の子が4人続いた後の、待望の男の子であった。祖父の弁治は喜びのあまり「しめた!」と叫んだので、「七五三太」という名前にしたとも言われている。父民治が藩の祐筆であったことから、襄も幼い頃から書道の稽古に励み、若くして父の代理も務めている。襄は書のみならず絵画の才能もあり、多くのスケッチが残されている。

13歳の折、選ばれて蘭学を学んだことで、算術や海外事情への目が開かれた。中でも『ロビンソン・クルーソー』の訳書や『聯邦志略(れんぽうしりゃく)』に感銘を受け、近代的な外国の存在が脳裏から離れなくなった。またオランダの軍艦を見てそのすごさに圧倒され、快風丸という帆船での乗船体験を通して、海外密航の夢が膨らんでいった。1864年(元治元年)に快風丸で函館に赴いた 21 歳の襄は、福士卯之吉の助力を得て密かにベルリン号に乗り組み、さらに上海でワイルド・ローヴァー号に乗り替えて、念願のアメリカ(ボストン)に到着した。(2014年は襄の脱国150周年)

ボストンでは船主のハーディーに対して、国禁を犯してまでもアメリカで学びたいという強い志を、拙い英語ながらも必死で綴った。それを読んで感動したハーディーが、学費を含めて襄の生活一切の面倒をみてくれることになる(養子待遇)。襄は最初にフィリップスアカデミーへ入学し、続いてアーモスト大学に進学、さらにアンドーヴァー神学校に通った。

アーモスト大学在学中、級友の求めに応じて再現した脱国時の扮装★

1871年(明治4年)、日本から岩倉使節団がアメリカへ到着した。これに先立ち森有礼の計らいで、襄にパスポートと留学許可証が渡され、ようやく帰国の路が開かれた。襄は神学校を休学し、使節団の通訳として働き、そこで木戸孝允・伊藤博文・田中不二麿などの有力者と知遇を得ている。その後神学校に復学した襄は、1874年(明治7年)に卒業して牧師の資格を得、アメリカンボードの準宣教師として日本に帰国することとなる。ラットランドで開催された年会で、日本にキリスト教主義の学校を設立したいと熱く訴えた襄は、その場で5,000ドルもの献金を受けた。

1874 年(明治 7 年)11 月、アメリカから太平洋を横断して帰国した31歳の襄は、家族の待つ群馬県安中で10年ぶりの再会を果たすと、ただちにキリスト教の学校を設立すべく、宣教師達の待つ大阪へと出立した。そこで旧知の木戸孝允の支援を受け、資金の寄付にも見通しが立ったのだが、時の大阪府知事渡辺昇はキリスト教に全く理解を示さず、大阪での開校は不可能となった。その後、襄は古都京都へ足を運んだ。ここで山本覚馬と運命的に出会い、その後押しを受けてもっとも困難と思われていた京都に学校を設立することになる。

京都府顧問として活躍していた覚馬は、以前に宣教師のゴードンからもらった『天道溯原(てんどうそげん)』を読み、キリスト教精神を高く評価していたのである。1875年(明治 8 年)11 月 29 日には、早くも官許同志社英学校が開校した。この時、教師は襄とデイヴィスの二人だけであり、生徒もわずか八人というささやかな出発であった。さらに覚馬は、自ら所有する土地(旧薩摩藩邸跡)を惜しげもなく校地として提供してくれた。

ところで時の京都府知事は公家出身の長谷信篤だったが、実権は長州出身の槙村正直権大参事が握っていた。当初槙村はアメリカ帰りの襄に肩入れしていたが、キリスト教の学校設立に対して、仏教界が猛烈な反対運動を展開した。そのため槙村も次第に襄の反対者側に傾いていった。覚馬の妹八重は、10月15日に襄と婚約したが、そのため11月18日付で女紅場を免職になっている。襄も11月22日に博物館掛をやめさせられている。

同志社女学校第7回卒業式(1889年)
新島襄が卒業式に出席することができた最後の年である。(後列に新島夫妻、前列右に土倉政)★

翌 1876 年(明治 9 年)1 月 3 日、襄と八重はデイヴィス邸で結婚式を挙げた。これから八重は、校長夫人・牧師夫人として14年間襄を補佐することになる。襄は、ニューイングランドのクリスチャンホームを理想とした。食べ物も洋食なら着るものも洋装、住居も洋風建築を取り入れた。襄は英学校を経営するかたわら、進んで伝道旅行を続けた。襄は八重と一緒に会津や安中はもとより、北は北海道から南は今治まで旅をしている。

襄は心臓の疾患を抱えながら、同志社大学設立に向けて心血を注いだ。しかしながら志半ばで病に倒れ、1890年(明治 23 年)1 月 23 日、大磯の百足屋旅館で47歳の誕生日を目前に亡くなった。襄の志は今も同志社に受け継がれている。

(吉海直人)

写真提供
同志社女子大学史料室
同志社大学 同志社社史資料センター(★印)

2015年4月1日更新

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